ちゃおチャオブログ

日々の連続

薩摩・大隅の旅(22)一気に佐多岬へ。

さてフェリーを降りて、ここから一路、佐多岬を目指す。
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垂水から佐多岬までの約150キロ、綺麗な海岸線が続く。
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入り江のような小さな漁村もあり、数軒が肩を寄せ合うように海に面している。
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佐多岬直下には広い駐車場があり、自家用車はここで町営のマイクロに乗り換える。
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マイクロに乗り換えて、岬の先端に向かう。12月ゆえ、乗客は自分を入れて3人。
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10時半、垂水港へ入港した。今日の目的は佐多岬までドライブすることだから、わき目もせず、寄り道もせず一気に佐多岬を目指した。垂水からは国道220号線・通称佐多街道を海岸線に沿って一路南下。約150キロ、渋滞がないから2時間も見ておけば十分だろう。元々薩摩・鹿児島は難しい漢字の地名、人命が多い。例えば人名で言えば、「陣内」と書いて「じんのうち」と読んだり、「やまもとさん」という名前は「山本」ではなく「山元」だったり「坂元さん」なんかもいる。「かねこ」が「兼子」と言った具合だ。そもそも「おいどん」なんて「俺」のことだとは分かるが、何で「おいどん」と言うのか、又漢字はどうか、などさっぱり分からない。日本武尊がこの地を平定した当時、隼人族というやや大和族とは異なった種族が住んでいて、今でもその影響を色濃く残しているのだろうか。

人名がそうだから、地名となったら猶更分からなくなる。垂水を下った隣町が「鹿屋」であり、これはまあ、「しかや」ではなく「かのや」とは読める。「鹿の子絞り」を知っていれば、「かのや」と読むのは容易だろう。その次の「肝属郡」が難しい。「きもつき郡」。ここには「肝付町」という町もあり、「肝属郡肝付町」。そうこうする内にちょっとした賑やかな集落「根占」にやってきた。ここは南大隅町の中心都市で、「ねじめ温泉」があり、対岸の薩摩半島指宿港からのフェリーも往来している。車の中からチラとフェリー乗り場の辺りが見えるが、先の垂水と比べたら、規模も利用者も半分以下の様子に見えた。そこから少し進むと薩英戦争の砲台跡があり、その前にはちょっとした海鮮料理の店もあり、取り敢えずは先に佐多岬を見てから、帰りにここで昼飯を食べることにした。

車は南大隅町の最期の集落伊座敷の集落を通り抜けると、後は岬までの一本道、集落の途切れた山間を切り開いた山中を走ることになる。時々眼下に小さな入り江が見えて、その僅かばかりの平地に数軒の黒瓦の家が肩を寄せ合うように建っていて、ああ、こうした数軒の家々、江戸時代、いやもっと遥か先の時代からこの海でこうして助け合って生きてきたのか。砂どりを生計の糧とし、その僅かばかりの収入の中から、中には東京の大学まで仕送りをしていたかも知れない。貧しいかも知れないが、何と純朴で平和な人々の生活のように思えた。

この最後の山間の道路。Up-Downもあって起伏も激しいが、この道路をTakaさん夫婦は最後の力を振り絞って自転車をこぎ岬に向かった。いや又鳥さんは岬をスタートして数時間、人気の全くない山間の道をどんな意気壮大な気持ちで、一歩一歩の前進を歩いていただろうか・・。宗谷岬までの総距離3000キロ! そんな事どもを考えながら車を走らせていると、ちょっとした集落のある浜辺に出て、その先が日本列島最南端、佐多岬だった。ここで車を降り、町で用意したマイクロに乗り替えて、灯台のある先端部に向かうことになる。・・いよいよここまでやって来たか・・。



マイクロで日本列島最南端の碑まで運んでもらう。
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佐多岬が前方に見えている。
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現在岬までの遊歩道は整備工事中で、直下まで行くことはできない。
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日本最南端の佐多岬灯台
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見晴らし台で1枚記念写真を撮る。
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