ちゃおチャオブログ

日々の連続

薩摩・大隅の旅(23)本土最南端「佐多岬」。

記念碑の100m程前方には岬が見える展望台が作られている。今はここから先の灯台までは行かれない。鳥さん、Takaさんが来た頃は灯台まで歩いて行けたようだが・・。今は整備中かも知れない。
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灯台のはるか先にはうっすらと屋久島、種子島も水面に浮かんでいる。
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南国の海。暖かい。
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岬の山は南方系の樹木に覆われている。
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南国の花、ハイビスカスのようだ。
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展望台の前には大きな古木が自生している。
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根っこの感じはガジュマルのようにもみえるが・・
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本土最南端「佐多岬」にやってきた。地図上の日本最南端は沖縄の波照間島であるが、そことの区別上「本土最南端」としている。沖縄は長らく外地であり、外国であり、明治の初め頃廃藩置県が行われ、それに合わせて琉球王国も廃止され、正式に日本の一地方、沖縄県となった。それまでの琉球は徳川藩幕体制の外に置かれ、長らく一つの王国だったのだが、明治政府は琉球保護の名目で日本国の施政権下に置いたのだ。

その参議に大きく与かったのが城山で自決した西郷であり、当時の薩摩と沖縄の特殊な関係が影響していたのだろう。だが、太平洋戦争に敗れた日本は再び沖縄を切り離して、そこは米国施政権下に置かれ、外地になってしまった。当時日本人が沖縄に旅行するには麻布の今ミッドランドタワーの建っている場所に米国領事部があって、そこで入国ビザを取らないと渡航できなかった。その頃の沖縄の人は日本国内を「内地、本土」と呼んでいた。その名残は今でも残り、ここ佐多岬は「本土最南端」としている。沖縄以北、沖永良部、与論島から先は本土であり、本来なら与論島の最南端が本土最南端とすべきなのだが、奄美群島も一時米国の施政権下に置かれ、戦後しばらく経ってから日本に返還されたので、一般的には「本土」はこれ等の島嶼群は含まれていないのかも知れない。

展望台から佐多岬灯台、更にその先の南の海を眺めると、水平線に隠れるようにしてうっすらと屋久島が見える。又その近くには水面すれすれに種子島も見える。この距離なら江戸時代伝馬船で渡れないことはない。西郷が月照と共に島流しにあったのはどの島だったのか・・。遠い昔俊寛僧都が流された喜界が島はどの辺りか・・。いやいや戦艦大和が最後の特攻攻撃に出撃し、雲霞のごとき敵機、渦巻く魚雷に断末魔のごとき最期を遂げたのもこの海域だ。日本のシンボル、海軍の星が轟沈した時点で日本は降伏すべきだった。陛下を忖度し、軍人自身の地位と名誉を守るための継戦、原爆が投下されるまでの数か月間、数百万人の人命を道連れにしての断末魔の戦い。そこにどんな意味と意義があったというのか・・。

師走の観光地、ここまでやってくる人も少なく、漸くカップルを見つけ、写真を撮ってもらった。平和な海、冬でも暖かな暖流の海。海は本来平和なものだが、日本が間違った方向に進んだ結果、血の海と化した。紺碧でもない群青でもない、暖かな緑色の海に別れを告げて、再びマイクロに乗って麓の駐車場に戻ってきた。

    < 鎮魂の 海に捧げよ 仏桑花 >



本土最南端の碑まで戻る。
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本土最南端「佐多岬」。
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北緯31度線。
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北緯31度線は上海、カイロと同じ緯度だ。
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人がやってくるのを待って、最後の1枚。
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もう一度海を眺めマイクロに乗って駐車場に戻る。
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いつもそう思うが、ここも又、今日が最初で最後の土地となるのだろうか・・
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