ちゃおチャオブログ

日々の連続

薩摩・大隅の旅(26)砲台を見て昼を食べ開門を眺める。

ここは幕末の砲台だけあって、昔の大砲が展示されている。
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キャノン砲だ。
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斉彬公、こうした大砲を昨日見た反射炉で作らせていたのか・・。
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公園には南国の花が咲いている。
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ああ、ハイビスカスも咲いている。
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この旅行記は今から半年ほど前の去年の12月のものである。だが昨日の7月11日、お昼のニュースの直前にテレビに赤いテロップと同時に緊急警報が流れ、九州鹿児島方面に大きな地震が発生するとの警報があった。その後昼のニュースの時間になっても現地からの報道が継続されたが、この東京では地震波も感じられず、遠く離れた関係ない地方の出来事と画面を見ていた。テレビでは震度5で、震源地は鹿児島市喜入町沖の鹿児島湾と報じていた。今まで自分はこのブログでもそうだが、錦江湾と覚えていて、そう書いてきた。処が、最近この湾の名称は鹿児島湾と呼ばれるようになったのだ。何時ごろから変更になったのかは知らないが、全国放送で流すテレビで、錦江湾とアナウンスするよりは、鹿児島湾と表現した方が、見て聞く側は直ぐに理解できるだろう。報道は簡単明瞭が良いのだ。

処が後でぞっとしたのは、震源地が喜入沖の鹿児島湾、と聞いたことである。この喜入町は巨大な石油ターミナルになっていて、日本最大級の石油基地だ。今朝鴨池からフェリーで垂水に渡った際にも、フェリーの後方、指宿に向かう手前の海岸線に果てしない数の石油タンクが林立していたが、そこがこの喜入なのだ。TVでは川内原発についての動静が報じられ、被害がないことを伝えていたが、もしもこの喜入石油備蓄基地の真下で直下型地震が発生したら、それこそ原発並みの被害が発生したであろう。巨大な石油タンクは倒壊し、一斉に火を噴き、喜入の町は瞬く間に焼失し、鹿児島湾も火の海で鎮火不能になるだろう。震度5というそれ程巨大でない地震と、震源地が少しずれて湾内であったことが幸いした。しかし又いつ同様な危険に遭遇するかは分からない。地震国日本、行政の対応も急務だ。

さて、半年前の旅行に戻ると、ここお台場公園は幕末の藩主斉彬公により建造されたもので、多分、品川沖のお台場にしても彼の意向が強く働いていたと思われ、幕末の英君の一人であることは間違いない。この砲台から英艦に砲撃した結果、逆襲に遭い、あっけなく打ち負かされたのだが、彼が英君と言われるもう一つの所以は、この薩英戦争における英国軍の強さを目の当たりに体験し、莫大な賠償金を払うとともに英国との単独修好を結び、英国の後ろ盾で幕府軍、倒幕運動に進んで行ったことである。

そうした幕末の風雲急を告げる激動の中で、この藩には英明の君主がいたのだが、新しい日本を見ることもなく、僅かに50を過ぎたばかりの若年で世を去った。もしも彼が明治の世まで生きていたら、この日本はどんな風になっていただろう・・。そんなことを考えながら、丁度この台場公園を見下ろす場所に料亭があり、そこは朝佐多岬に向かう途中に目星を付けていた食堂ではあるのだが、見晴らしの良い個室から、海の向こうに晴れ晴れとした勇姿を見せている開聞岳を眺めながら、少し遅い昼食を摂った。近海物の刺身定食が美味しく頂けた。



さて、公園の上の海の見える部屋で昼飯とする。近海の刺身が美味しかった。
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窓の外に錦江湾、いや、鹿児島湾が見える。
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正面の開聞岳、何回見ても良い山だ。
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薩摩の最南端、長崎の鼻も見える。
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さて、開門ともここで一旦はお別れだ。
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