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日々の連続

由美子、難病SLEとの戦い(7)地裁裁判長宛ての陳述書(続)

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由美子が看護学校に入学した時、その勉強のすさまじさには大いに驚きました。毎日の予習復習、試験前の徹夜での勉強、レポート書き、並みの大学生以上の勉強量でした。寝食を惜しむ位の勉強量で、私は、少しくらい手を抜け、単位を幾つか落としてもいいじゃないか、等しばしばブレーキをかけましたが、ブレーキの役割は全く利きませんでした。勉強のし過ぎは健康に良くない、このまま行ったら潰れてしまうかも知れない、と当時は心底危惧しました。また子供の同級生の母親からも奥さんは偉いね、本当によくやるね、と話しかけられたのを何回となく耳にしています。3年間で無事看護学校も卒業でき、やっと戦場のような気違いじみた勉強苦から解放されるかと、私自身卒業を喜ぶと同時にほっとしました。
 
由美子が無事卒業もでき、資格も取れた後、今度は都の病院の看護婦になりました。総合病院の看護婦は夜勤もあり、昼夜が逆転する、30後半からそのような激務ではとても健康が保てない、由美子がどうしても看護婦をやりたいというのであれば、入院設備の無い小さな通いの町医者でしたらどうか、と反対もしました。私自身の問題としても、彼女が当時120万円以上の所得のある職業に就くと、会社の扶養手当、又税法上の扶養控除が受けられなくなり、却って減収になることもありました。
 
又、私は西伊豆の漁師町の出身で、そこは沿岸漁業の盛んな所でもあるのですが、「夜引き」と言って、夜小舟で出港し、夜中じゅう漁をして、朝港に戻る漁法があります。その「夜引き」の漁師は大体40歳位を境にして「夜引き」から別の日中の漁法に変わるのが大半で、それは何故かというと、深夜の仕事は健康に良くないと経験上知っていたからです。だから私は「夜引き」の例を引き合いに出し、夜勤の仕事には強く反対したのでした。ですが、由美子は都立の看護学校を出たものは、一定期間義務として都立病院に勤務しなければならい、との一点張りで、私の要望を全く聞き入れませんでした。この時、頑として彼女を説得していれば、或いはこの様な難病に罹患せずに済んでいたかも知れない、と考えますと、本当に残念でなりません。
 
                               以上
 

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