沢山の来訪者が躑躅を愛でている。
以前はこの護摩堂の前まで車で来ることができたが・・
見事な躑躅の園。
塩船観音寺の門前の駐車場がすごい賑わいだったが、山門に向かうと、今度はお寺の参詣客で溢れかえっている。横断幕を見ると、丁度今月はツツジ祭りで、このお寺の売り、躑躅の庭園を見に、人々が集まって来ているのだ。過去このお寺には2回来ているが、それはもうほぼ20年以上も前の事で、当時もこの寺は躑躅で有名だったが、参詣客は数える程だった。ツツジ祭りは4月中旬から5月上旬にかけて行われ、テレビ等でも取り上げられているから、人気度も年々高まっているのだ。
20年前は車で本堂のすぐ前まで行けて、そこからツツジの丘を眺められたが、今日は山門を入った直ぐの所で、チケット窓口が急造されていて、拝観料300円を徴収している。これはツツジの期間に限られたことだろうが、それにしてもこのお寺、良い処に目を付けた。躑躅の山は確かに売り物にはなるし、やって来た人々は、お金を払ってでも、この全国的にも有名な躑躅庭園を是非一度は目にしたいと思うだろう。
山門を登った直ぐの場所に阿弥陀堂があり、更にその奥の階段の上に藁ぶき屋根の本堂があるが、ここから先がツツジの園である。色とりどり、正に万華鏡のごとき満開のツツジがぱっと眼前に飛び込んでくる。以前よりは随分と手をかけ、見栄えを良くし、これでは拝観料を取っても、誰からも文句は言われないだろう。本堂を少し下った所が護摩堂前の大広場で、以前はここまで車で一気に来れた。その時もツツジが満開の季節だったが、国立に住んでいた伊野さんも、初めて見るツツジの山の美しさに感嘆していた。
扇を開いたように、競技場のマウンドから観客席を眺めるように、180度、ぐるりと取り巻くツツジの花々。躑躅が赤やピンクの単色ではなく、様々な色合いに染まり、そのアンジュレーションに息を飲む。自然の景観を生かした命ある芸術作品だ。京都丸山の枝垂れ桜、天領日田の杉美林、吉野の桜。生きる命を芸術作品に変え、その輝きは一瞬だ。来月になったら花は萎れ、庭木の茂るただの丘になる。その一瞬の輝きを見る為、人々は遠方からやってきて、感動する。
丘の上の頂に白い大きな観音像が立っている。以前には無かったものだが、観音寺に相応しく、檀家衆が寄進したのだろう。その観音像の周辺にも人がいて、躑躅の園を見下ろしている。園の中にも遊歩道が造られていて、人々がそぞろ歩いている。そうだ、自分もこのツツジの小道を歩いて、あの丘の上の観音像まで行ってみよう。上から見下ろすのも、又違った景観が得られるかも知れない。
20年前は車で本堂のすぐ前まで行けて、そこからツツジの丘を眺められたが、今日は山門を入った直ぐの所で、チケット窓口が急造されていて、拝観料300円を徴収している。これはツツジの期間に限られたことだろうが、それにしてもこのお寺、良い処に目を付けた。躑躅の山は確かに売り物にはなるし、やって来た人々は、お金を払ってでも、この全国的にも有名な躑躅庭園を是非一度は目にしたいと思うだろう。
山門を登った直ぐの場所に阿弥陀堂があり、更にその奥の階段の上に藁ぶき屋根の本堂があるが、ここから先がツツジの園である。色とりどり、正に万華鏡のごとき満開のツツジがぱっと眼前に飛び込んでくる。以前よりは随分と手をかけ、見栄えを良くし、これでは拝観料を取っても、誰からも文句は言われないだろう。本堂を少し下った所が護摩堂前の大広場で、以前はここまで車で一気に来れた。その時もツツジが満開の季節だったが、国立に住んでいた伊野さんも、初めて見るツツジの山の美しさに感嘆していた。
扇を開いたように、競技場のマウンドから観客席を眺めるように、180度、ぐるりと取り巻くツツジの花々。躑躅が赤やピンクの単色ではなく、様々な色合いに染まり、そのアンジュレーションに息を飲む。自然の景観を生かした命ある芸術作品だ。京都丸山の枝垂れ桜、天領日田の杉美林、吉野の桜。生きる命を芸術作品に変え、その輝きは一瞬だ。来月になったら花は萎れ、庭木の茂るただの丘になる。その一瞬の輝きを見る為、人々は遠方からやってきて、感動する。
丘の上の頂に白い大きな観音像が立っている。以前には無かったものだが、観音寺に相応しく、檀家衆が寄進したのだろう。その観音像の周辺にも人がいて、躑躅の園を見下ろしている。園の中にも遊歩道が造られていて、人々がそぞろ歩いている。そうだ、自分もこのツツジの小道を歩いて、あの丘の上の観音像まで行ってみよう。上から見下ろすのも、又違った景観が得られるかも知れない。
色とりどりのアンジュレーション。造園の絶え間ない努力の結果、生きる芸術作品に仕上げている。
以前は無かった丘の上の観音像。そうだ、あの丘の上まで行ってみよう。
この季節、檀家衆も大張り切りだ。