午前の比較的早い時間に携帯が鳴る。見ると柄沢と表示されている。正月早々何だろうと応答すると女性の声だった。訝しく思ったが、柄沢の携帯を使って電話しているのだろう。女性は柄沢の妻と自己紹介し、当方からの年賀状が届いたが、本人は既に6月に亡くなった、との報告。奥さんとは電話で2‐3回話したこともあり、話している内に過去のトーンを思い出した。
6月初旬、自宅で倒れたが、その時娘は2階にいて倒れた音は分からなかったとのこと。何かの用事で2階から降りてきて発見した。直ぐに救急車を呼んだが、殆ど脳死状態だったが、まだ呼吸があるとの事で、病院に運ばれた。その後、救命措置が行われ、意識はなかったものの、生き続け、10日後に呼吸が荒くなったとの病院からの連絡で、直ぐに駆け付けたが、その時はもう既に亡くなっていた。死んだら長野の兄にだけ伝え、誰にも知らせるな、との伝言で連絡が今日になった、とのこと、経過を掻いつまんで話してくれた。
自分よりは1歳上だから、80になったばかりか・・。大学時代、一番親しくしていた友人で、酒も飲んだ。多彩なキャリアでポーランドのアウシュビッツへ行ったり、イスラエルではキブツで生活したこともあった。自衛隊も入隊したこともあった。就職には恵まれず、幾つかの会社を渡ったが、最後は個人貿易商のようなことをし、それがやや成功したのか、40年ほど前に今の所沢の自宅を買った。いつか富山の伏木から電話があり、何でそん所に行っているのか聞いたら、ロシアや中東への中古車の輸出で来ている、との話だった。
10年程前、その自宅の庭で倒れている処を家人に発見され、一命を取り留めたが後遺症が残り、右半身が不随で、暫くは車椅子の生活だった。リハビリに努力し、たどたどし筆跡で年賀状は欠かさかった。努力の甲斐あって、その筆跡も年々上手になって来た。1年にⅠ-2回電話で話すこともあったが、発音も年々上手くなって明瞭になってきた。その矢先の脳卒中の再発だった。
何年か前、墓を建てたから見に来てくれと言われ、その時自分はもう車を処分していて、稲さんの運転で自宅を訪問し、そのお墓も見せてもらった。コロナ前だからもう5-6年になるか・・。今は稲さんも転居し、自分の今の足ではそのお墓へも行くことは出来ない。自宅宛てに香料を送り、自分に代わって焼香してもらうしかない。3年前コロナ禍で岡先生も亡くなり、娘さんからはお寺の名前は聞いていたが、行かず終いになっている。もうこの歳で、自分自身では殆ど何も出来ない状態になっている。併せて、岡先生にも香料を送り、代わりに線香をあげてもらうしかない。
知人、友人が年々遠い所に行ってしまった。歳を取ると言うのは、一人残された寂しさに耐えることなのかも知れない。来週か再来週、90歳を越えた姉夫婦の話し相手に行ってやろう。