ちゃおチャオブログ

日々の連続

ビルマ・マンダレー特急旅行(29)日本人墓地「戦没者霊園」。

スーレーパヤー前の広場でタクシーを捕まえる間も多くのバスが通り過ぎて行く。
イメージ 1
 
 
 
この町ではバスは重要な交通手段となっている。
イメージ 2
 
 
 
トラックの改造バスも超満員だ。
イメージ 3
 
 
 
こうした自転車タクシーも有力な交通手段だ。
イメージ 4
 
 
 
日本人墓地へやってきた。
イメージ 5
 
 
 
日本人墓地、正面の慰霊堂に向かう。
イメージ 6
 
 
 
 
スーレーパヤーの前の広場に屯す何台かのタクシーに日本人墓地まで行き、そのままバスターミナルまで乗って5000チャットと交渉しても誰もOKはしない。そこで料金を7000チャットまで上げたところOKが出て、町の北にある墓地に向かう。途中の大きな湖の横を通り過ぎ、郊外のまばらな人家を通り過ぎた辺りに小ざっぱりした日本人墓地があった。

この日本人墓地は、この地に滞在していて客死した御霊を祀るものではなく、第2次大戦時この地で戦病死した日本兵を祀るため、戦後遺族や各地の在郷軍人会が慰霊碑、慰霊塔を建立したものである。従って敷地の大きさもそれ程大きなものではなく、幅約100m、縦長約250m程の細長い長方形の墓地になっていて、ここを訪ねる人も多分日本人に限られていて、乗って来たタクシー運転手も最初は場所が分からず、探し探ししてやっとたどり着いた場所である。

無謀な戦いだった。ABCD包囲網の中で、資源の無い日本はこのまま行ったら餓死せざるを得ない状況下、インドネシアを占領下に置くためにはフィリピン、シンガポールまでの進駐は不可避だったとしても、その先更にビルマに進駐し、インドとの国境に横たわる山脈を越えてインパール、コヒマまで攻め入ろうとしたのは、我彼の実力を見誤った、乃至自己の実力を過大視した無茶苦茶な戦いだった。

世に言うインパール作戦。過去数多の戦記物、従軍記、回想記などが出版され、その内の幾つかを読んだこともあるが、これ程悲惨な戦闘は過去の如何なる時代にもなかった。白骨街道とも言う。この作戦に参加した8万5千人の将兵の殆ど大半、ほぼ7割の6万人からの兵士は飢えとマラリアと敵の空爆、銃砲に倒れ、遺体収容もままならずその場に打ち捨てられ、蛆に蝕まれ、白骨となり、退避道に延々と続いていた。無惨な戦いだった。

霊園の草木は綺麗に整備され、毎日何人かの日本人が慰霊にやってくるのかも知れない。南国の陽光に輝く慰霊碑は、そうした忌まわしい過去の歴史を隠し、或いは美化し、戦没者を英霊としている。土饅頭で良いのだ。或いは古風な日本の墓石で十分だ。こんな立派な大きな慰霊塔など必要ない。泥にまみれ、食料もなく、昨日の戦友の屍肉も喰らったかも知れない白骨死体。こんな風に霊園として美しく飾られたとしても、戦争の責任、自分たちを不条理な死地に追いやった時代背景、責任者が糾弾されない限り、黄泉の世でも喜びはしないだろう。身を持って訴えたかったのは、二度とこのような悲惨な戦争を起こしてはならないことであり、日本は厳然とその方向に向かうことである。

約200mの中央慰霊堂に向かう真っ直ぐな参詣道を歩き、左右の慰霊碑を眺め、そう思った。広島の原爆記念館に入った時程の心の震えはなかったが、同じような霊からの訴えを感じるものだった。
 
 
 
 
戦没者遺族、生き残った戦友などにより建立されている慰霊碑。
イメージ 7
 
 
 
物静かな慰霊碑もある。
イメージ 8
 
 
 
慰霊堂に近付くにつれ、大きくて立派な石碑が目立ってくる。 http://static.app.widdit.com/images/features/searchwiddit.png
 
イメージ 9
 
 
 
大きくて立派な石碑に、泥にまみれて死んでいった戦友は果たして喜んでいるだろうか・・
イメージ 10
 
 
 
この霊園に一体幾つの慰霊碑が建てられているのだろうか・・。 http://static.app.widdit.com/images/features/searchwiddit.png
 
イメージ 11
 
 
 
 
つい最近建立されたNPO法人の立派な慰霊碑も建っている。