ちゃおチャオブログ

日々の連続

高尾の紅葉と津久井山ユリ園(4)津久井山ユリ園。

城山からの下山途中の山道には、こうした人形、こけしなどが奉納されていた。
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国道に出て、相模野の集落を津々井に向かう。長閑な集落だ。
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この一ケ谷沢を渡った先に山ユリ園がる。この木陰の向こう側だ。
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ああ、「一ケ谷沢橋」。源平合戦、一ノ谷と同じ名前だ・・。何と象徴的だろう・・
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橋を渡った直ぐの右手に「津久井山ユリ園」があった。
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人の噂は75日。津久井山ユリ園事件から既に3か月が経過し、人々の忌まわしい記憶の中からも薄れかけてきている。他人の災難、災厄などは早く忘れるに越したことはない。それが一般の人々の偽らざる気持ちだろう。今、津久井山ユリ園と聞いて、どれ程の人が即座にこの園の名前を思い起こすだろうか。あの忌まわしい事件は既に風化しつあり、人々の脳裏の中には犯人の名前や正確な犠牲者数すらも覚束なくなっている。

7月26日未明、殺人犯植松聖は拘束バンドとナイフを持って園に押し入り、19人もの入院患者を殺害した。近世稀に見る凶悪犯罪で、日本の犯罪史に永遠に記録されるものである。犯行の状況は実におぞましいく、これが人間の行った仕業かと思わせる震撼寒からしめるものがあったが、植松は紛れもなく人間であり、犯行直前までは普通の人間として生活していた。犯行の動機、家庭環境、生い立ち、精神構造等々、解明すべき点は多々残されている。

この山ユリ園、過去2回ほど訪問しようと思っていたが、時間的、身体的な不都合で果たすことはできなかった。今日は時間は十分ある。脚の疲労も困難さを伴うものではない。2時、城山を下山。東海自然歩道区間でもある山道は良く整備されていて歩き易い。が、登る人も下山する人も全くいなくて、少し寂しい位だ。高尾から陣馬を結ぶ峰道は、この山嶺のメインの登山道になっていて、この時間、猶沢山の人々の行き来はあるが、ちょっと脇道へ入ると登山者は極端に少なくなる。半分ほど下山した辺りで、漸く2-3人の下山者に追い抜かれた。

城山からは1時間ほどかけて下山。そこは千木良の集落で、旧甲州街道、相模湖と八王子を結ぶ街道上にある。そこから道路を筒井湖の方に向かって歩くこと約20分、長閑な集落を通り抜けると、目指す「山ユリ園」があった。かなり高低差のある橋を渡った右手にあるが、そこは「一ケ谷沢橋」の際にある。

「一ケ谷」。それは源平合戦、一ケ谷の戦いの場で有名な場所だ。ここで若干16歳の若武者平敦盛は源氏の武将、熊谷直実に首を掻き切られ無残にも討ち死した。後に横笛が残された。打ち取った直実自身がその死を哀れみ、戦いの後武士を辞めて仏門に入ったのだ。何とこの山ユリ園は、平家物語に出てくる一の谷と同じ名前の場所にあったのだ・・。それは偶然の一致かも知れないが、自分にとっては何か象徴的だった。

この橋を渡ると直ぐに右手に園はあり、園の正面出入り口付近には祭壇が設けられ、3か月経った今でも沢山の献花で溢れていた。突然の命を絶たれた遺族の思いが花に託されていた。

植松がどうして突然このような行動を起こしたのか。ある学者によれば、ミームという精神医学上の目に見えない病原体が、突然人の脳の中に入り込み、その脳を支配し、行動に駆り立てる、という。そうとすると、ノルウエーであった60数人の大量虐殺事件の犯人もミームに冒されていたのかも知れない。ある日突然人が変わり、自身の意思とは関係なく凶悪犯罪に走っていく。目に見えない病原体だから事前のチェックも出来ない。恐ろしい時代に入ってきた。

山ユリ園の前方の山の端に相模湖ピクニックランドの大きな観覧車が見えている。夏の頃の賑やかな午後には、子供たちの歓声がこの園まで届いてくることもあっただろう。この施設に入所していた老若男女、生まれながらにしての障碍者が多かったとのことである。犠牲者はそうした普通の子供達が味わう楽しみも知らず、昇天していった。今頃霊はその観覧車に乗って、この園を見守っているかも知れない。園と祭壇に黙礼し、バスで相模湖駅まで出て、今日1日の山歩きを終了した。



園の正面には祭壇が設けられ、今も生花が絶えない。
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広々とした園。何人の入居者がここで生活していたのだろう。
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後方の山には相模湖ランドの観覧車が見えている。
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入居者、家族はそういう思いで、この観覧車を眺めていたのだろう。
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施設の隣の一ケ谷。深い沢と闇に包まれていた。
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