ちゃおチャオブログ

日々の連続

四国霊場最後の巡礼(60)丸亀城の石垣。

小学生の後を追うようにして、お城に登る。

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11月初旬、今この辺りが紅葉の盛りのようだ。

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  • 丁度良い季節にやってきた。

    f:id:commodore:20210130222907j:plain暫く登ると、前方で先の小学生が石垣の前に止って、ガイドの話を聞いている。

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    • 確かに見事な石垣だ。

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    • どこの町からやってきたのか、行儀の良い小学生。引率の先生に従って、列を乱すことも無く天守閣に向かって坂を登っていく。中ほどまで登ってきた所で添乗員の話を聞いている。女性添乗員は石垣を指さして、いろいろと説明をしているようだ。小学生も熱心に話を聞いている。自分も近寄って一緒に話を聞く。

確かに立派な石垣で、武者返しもしっかり角度がついている。武者返しの石垣で思い出すのは熊本城と伊賀上野城。殆ど同じサイズに切り剥がされた石が、びっしりパズルのように嵌め込まれている。この城は100名城のなかでも石垣が綺麗なことで有名だ。高さ約20m、この上に更に石垣が組み込まれていて、天守閣までの三層の石垣の合計は40mを超える。この巨大な石がすべて人力で運ばれ、持ち上げられ、組み込まれたのだ。

この城が建っている山は亀山という。だから丸亀城は別名亀山城とも呼ばれていた。丁度松山城が建っている山の名前が勝山で、別名勝山城と呼ばれているのと同じだ。高知城も小高い山の上に建っているが、別名はその山の名前ではなく、鷹城と呼ばれている。丸亀という地名が先にあって、この山が亀山と名付けられたのか、或いはその逆なのかは知らないが。讃岐平野は全般にこうした亀の甲羅のような丸みを帯びた山容が多い。

坂本龍馬は幕末長崎で「亀山社中」という商社のような会社を興すが、その「亀山」の名前がどこから生まれたのかは分からない。彼が土佐を脱藩した時、四万十川の源流、梼原(ゆすはら)を抜けて愛媛に入ったが、その時、この丸亀までやってきたのか、或いは彼は運航していた「いろは丸」で、何回かこの丸亀港にもやって来て、船内からこの亀山城を見ていたのかも知れない。亀山城亀山社中、奇妙な一致点に想像が膨らんだ。

11月初旬、暖かな四国では、あちこちの霊場で丁度盛りの紅葉を見ることができた。この丸亀城も丁度今が見頃のようだ。だかコロナ禍で、紅葉狩りにやってくる遊山者の姿は少ない。この賞が鵜性の一団がお城を占領しているかのごとくだった。紅葉に見え隠れする白い石垣。一幅の絵にはなった。

 

切り込み接ぎか、鋭い鋭角で、びっしり組み込まれている。

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第一層だけで20m以上、二層、三層に分かれていて、合計の高さは40mを超える。

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紅葉と石垣が良くマッチしている。

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いろいろな城のいろいろな石垣を見てきたが、この城も記憶に残る石垣だ。

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高浜虚子の句碑まであった。

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