ちゃおチャオブログ

日々の連続

四国霊場最後の巡礼(60)丸亀城(亀山城)天守閣と讃岐富士。

石垣を少し登った先が二の丸展望台になっている。

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ここからは真正面に讃岐富士が見えている。

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又別の讃岐7富士が見えている。

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広々とした二の丸台地。

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二の丸展望からすぐ先が本丸だ。

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躾の良い小学生は、後で聞いてみると、同じ県内の三豊市から来ている小学5年生とのこと。若い担任の先生以外にも年配の先生が付いていた。多分教頭かも知れない。かなり沢山の生徒数で、多分就学旅行だろう。日本の小学生、誰にもこうした経験はあり、後年になっても良い思い出として、残っているだろう。考えてみたら、香川県内で城らしい城と言ったら、ここしかない。このお城を見に来ることは、県内の小学生の修学旅行の定番となっているのだろう。三豊市と言えば、丁度5日前、この讃岐巡礼の最初の霊場雲辺寺にやってきた時に通過した町だ。大平元総理の出身地でもある。丁度その日、三豊市鳥インフルエンザの最初の発生があり、テレビニュースでは大々的に報道していた。今現在このブログは2か月以上過ぎた1月末に綴っているが、トリインフルはその後各地に伝播し、猛威を振るっている。数百万羽の鳥殺処分に自衛隊の支援を仰いでいる状況だ。コロナにしてもトリインフルにしても、何か自然界からの人類に対する警鐘ではないのか、何かそう考えさせられる日々である。

亀山は高さ40mそこそこの小山だから、元気な人にはほんの散歩コースではあるが、足の弱った人には、ちょっとした登りでもきつく感じる。本丸直ぐ下の二の丸まで登ってくると、正面に讃岐富士が見えてくる。間近の正面に見える。昨日金比羅山本宮テラスから遠くに見えた山も直ぐ目の前に見える。高さは422m。均整の取れた見目麗しい山容だ。先刻石垣の前に高浜虚子の「稲むしろあり飯の山あり昔今」の句碑が刻まれていたが、この讃岐富士の正式な名前は飯野山。お城の今自分が見ている同じ場所からの句だろう。今は合併で丸亀市の一部になっているが、昔の飯野村。西行もこの山を見て、「讃岐にはこれをば富士といいの山朝げ煙立たぬ日はなし」と詠っている。西行が生きた時代、富士山は実際に噴煙を上げていたが、この山はもうとうの昔に死火山となっている。西行が見た煙は、朝の炊事の煙だろう。西行が実際にこの山に登って、朝餉の煙を見たのかどうかは分からないが、背景には舒明天皇が天の香久山に登って国見をし、眼下の家々から煙が棚引く様をみて、国民の平和を願った姿を彷彿させるものがある。

その二の丸の直ぐ上が本丸天守閣である。石垣の壮大さに比べたら、意外と小さな天守閣で、山城の特徴を備えている。平地にある城ではないので、大きく高くする必要はない。この高地からは十分に眺望は効くし、仮に敵軍がこの本丸までやってきたら、もう城は持たない。城自体を強固に頑丈に作る必要性はないのだ。大きさも高さも6月に愛媛(伊予)巡礼で立ち寄った大須城と同じ位か。尤も大洲城は戦後のつい最近になって再築されたものではあるが・・。江戸期前後の時代に建造された多くの城郭は戦乱に巻き込まれず明治まで現存していた。それらの多くは国宝、重文に指定されている。自分もそれ等多くの城郭を見てきた。天守閣の小ささから言ったら、同じ国宝の犬山城天守程度か・・。自分には犬山城が国宝で、この丸亀城が重文に据え置かれている違いは今一つ理解できないが・・。

 

天守閣が見えてきた。

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ああ、見事な天守閣だ。

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江戸時代中頃に建造された重文建物だ。

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記念の写真を1枚。

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さあ、天守閣へ登ってみよう。

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