ちゃおチャオブログ

日々の連続

四国霊場最後の巡礼(62)丸亀城を下城し、満濃池へ。

本丸を下り、次の満濃池へ向かう。

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讃岐富士、どこから見ても美しい。

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城の平地の部分。石垣もしっかり組み込まれている。

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この大石を運び上げ、石組みするのは大変な作業だったに違いない。

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作家の京極夏彦がこの丸亀藩主京極家の系譜に連なっているのか、単なる作家名なのかは自分には分からない。この京極家は明治の廃藩置県には全国一早く版籍奉還を行い、丸亀藩から丸亀県に衣替えして、県知事に収まった。明治の世に移り、全国藩主は華族に列せられ、この京極当主も子爵兼県知事となった。その後京極子爵が明治、大正、昭和を通じどのような活躍をしたかは、自分は寡聞にして知らない。ただ一つだけ言えるのは、東京のど真ん中、虎ノ門交差点の直ぐ脇に金刀比羅宮が鎮座していることであり、周囲を超近代的な超高層ビルに囲まれた中にあって、ここだけ一幅のオアシス、静寂が保たれているのは、平民となった後々までも京極家の尽力があったからだろう。天守閣を出て、再度讃岐富士、飯野山を眺め、城を下る。お殿様も毎日この大手道の坂道を登り降りしていたのだ。

江戸期の幕藩体制は極めて安定していて、一部の特別な事例を除いては、明治に至る後半の250年間、殆ど波風の立たないものだった。こうした安定の中でお家大事の意識が生まれ、士農工商の身分制はがっちりと保たれた。江戸期の後半はフランシスフクヤマの言う歴史の終わり状態だったのだ。この四国も阿波の蜂須賀、土佐の山内、伊予の久松松平、高松の松平等々、全て明治の世まで命脈を保ち、藩主であり続けた。こうした安定志向の寄らば大樹の伝統が今の選挙制度にも引き継がれているのだろう。今の国会議員の半数以上が2世、3世、4世議員で、世襲制ががっちりと守られている。藩主の子供が将来の殿様が約束されていたように、現代の代議士の子供は、将来の国会赤絨毯が約束されている。

城を下り降りた所で、再び石垣を見る。Masonry.フリーメーソンの語源ともなった職業集団で、日本で言う石工集団の源だ。伝統職業集団で、特別な能力技術を生かし、集団で各国を移動し、教会等の石造り建築を請け負った。丁度その頃日本にも穴太衆という石工集団がいて、全国の武将に招かれ、お城づくりに活躍していた。自分の知る限り、熊本城とかその近くの菊池の五橋、放水橋、伊賀上野城彦根城等であるが、この穴太衆はいつの間にか歴史の中から消えてしまった。欧州で言うフリーメーソンのような秘密結社には発展しなかった。矢張り日本は木と紙の文化で石の文化ではなかったのか・・。この丸亀城にまつわる秘話が一つ。藩主山崎の頃、この日本一高い石垣が建造されたのだが、それを差配した石工、羽坂重三郎はこの石垣が完成した後、城主山崎に殺されてしまった。二の丸井戸の説明書きに、彼はこの井戸の中で殺されたとあった。いやいや彼は殺されても、日本のどこかにまだ尚日本のフリーメーソンが密かに息づいていると・・。

 

三の丸、今は公園になっている。

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重文の御用門。この先に市役所がある。

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丸亀城を後に、次の満濃池に向かう。ここは万葉公園だ。

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池への道路を間違え、引き返す。このスズキが借りたレンタカー。今回は事故を起こさなくてよかった。

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