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日々の連続

四国霊場最後の巡礼(61)丸亀城天守閣からの眺め。

天守閣内部は撮影禁止で写真は採れないが、外の風景は可だった。

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前方に丸亀港、瀬戸内も見える。

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丸亀6万石の城下町。造船業も盛んだ。

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香川県自体が人口の少ない県であるが、この10万足らずの丸亀が高松に次ぐ2番目の大都市だ。

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今は丸亀うちわから丸亀うどんに衣替えしている。左の高いビルがアパホテルだ。

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江戸時代を通じ丸亀藩は3家の藩主が領主となった。最初の藩主は生駒氏で、秀吉配下の武将であったが、関ヶ原以前に讃岐一国の領主に任じられ、高松を本城、ここ丸亀を支城として一国を支配した。関ヶ原の戦いでは信濃の真田家同様に親子を東西に分けて戦い、取り敢えずは領国は安堵されたが、その後、江戸時代の初期にお家騒動が勃発し、改易となった。次に領主となったのは岡山池田殿の配下、山崎氏で、この時に現在の城割、石垣等が整備されたが、生憎3代続いた後に後嗣に恵まれず、お家断絶となった。僅か10数年の統治だった。最後にやって来たのは近江源氏の流れを汲む京極氏で、播州龍野6万石から横滑りで当地にやってきた。この京極家が明治ご一新までの約200年間、丸亀藩主として当地を支配した。京極が龍野から移って来た直後に現在の天守閣を造営したのは、今から約350年程前のことである。

古い木造の天守閣。急な階段を上り三層最上段からの眺めは流石に良い。広さは凡そ10坪、20畳敷き位の広さがあり、戦いの無い江戸時代、お殿様はこの天守に登り、月見の宴、花見の宴、何やかやの宴をやったに違いない。正面東には均整の取れた讃岐富士、北の城下の先には瀬戸内が広がり、沖を航行する帆掛け船も見えただろう。丸亀藩は舟運も活発で、確か宇喜多秀家かと思ったが、関ヶ原の戦いで敗れ、八丈島島流しされた際、酒好きの宇喜多を憐れんで、藩主の誰だったか、八丈島近くを航海させ、大波にさらわれたとして酒樽何本かを宇喜多に渡してやった、といったような浪曲もどこかで聞いたこともある。

北へ目を転ずれば、金比羅山は指呼の間。江戸時代、大山詣でから始まって伊勢講、金比羅参詣と人々の関心は今でいうInbound、国内の遠方旅行が盛んになり、備前岡山の下津井から渡船に乗ってやってくる人や、大阪からの直行船もこの丸亀港にやってきて、城下は丸亀うちわの土産品で、大いに潤ったとのことである。東京虎ノ門、日本で最初にできた超高層ビルのすぐ下の交差点の向かいには金比羅神社の境内があり、周囲を超高層ビルに囲まれた中にあっても、今でも緑を残しているが、ここは江戸時代の丸亀藩の藩邸があった場所で、讃岐の金比羅人気にあやかり、江戸にも分霊したものである。天守閣から眺める象頭山。350年の歴史は綿々と今に続いている。

 

北側には金比羅街道の突き当りに象頭山が見える。左側の麓近くに参道も見える。

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丸亀藩、歴代藩主の系図

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天守閣構造の説明。

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京極家は明治の廃藩置県を最初に行った藩で、藩主は丸亀県の県知事になっている(子爵)。

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江戸時代以前からも海運は盛んだった。

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