本丸に通じる最後の城門だ。
この門は以前来た時は気が付かなかった。新たに改装されたに違いない。
以前Yahooブログで活発な活動をしていた竜司さんは、宇和島出身で且つ宇和島東高の卒業生。多士済々の卒業生の中でも、ひと際異彩を放っていたが、今現在彼がどこで何をしているのかは全く分からない。ブログ上の関係は、ブログでの交信が途絶えればもう赤の他人で、生き死にすらも関知しなくなる。その以前のYahooブログで、このお城、松山城のことを触れたら、地元民の竜司さんは大変喜び、多くのコメントを寄せていた。この城は別名勝山城とも呼ばれているが、それはこの城が標高150m程の勝山山頂に建築されていることにより、そんな風に呼ばれてもいるのだが、その事に触れたら、彼から大変高く評価された。よそ者の当方が、よくぞそんな事まで知っていると。
この城に一度登った人なら、城内に掲げられている案内板等により、この城の別名を知ることが出来、殊更物知りという訳でもないが、自分も城好きで、各地の城郭を見て回っているが、確かにこの城は日本100名城の中でも上位に位置づけられるであろう。天守閣からの眺望は、大阪城、名古屋城は別格としても、一昨日登った宇和島城、数年前に登城した高知城、数年前の大地震で石垣の崩壊した熊本城、世界遺産の姫路城、本丸礎石だけの江戸城、等々幾つもある中でも、この城は出色だ。又、俳句に戻るが、正岡子規がこの本丸広場からの眺め、
「春や昔 十五万国の 城下かな」
の景色は今も昔も変わらない。
築城の名人と言えば、宇和島城、大洲城の藤堂高虎が有名だが、この松山城築城の加藤義明も大したものだ。加藤と言えば、直ぐに思いつくのは加藤清正で、彼の築城した熊本城も名城の最たる一つだが、この両加藤、秀吉麾下の武将で、賤ケ岳七本槍の二人だ。豊臣亡き後徳川の世になって、関ケ原、大坂夏の陣の後、清正は熊本52万石の大大名、一方の義明も伊予40万石の大大名に収まったが、後、この地から会津若松に転封となった。ちなみに松山という地名は、この加藤がこの地に城を築城した時点で、それ以前の勝山という地名から替えられたとのことである。自分は良くは知らないが、嘗てはこの山にも沢山の松が自生していたのかも知れない。そう言えば現代の俳人、夏井いつきさんも宇和島東の卒業生とはつい最近知った。彼女の句の中にこの城を詠んだのがあるかどうかは知らないが、子規はもう一つの秀句を作っていた。
「松山や 秋より高し 天守閣」。
以前はただだだっ広い本丸広場だったが、30年の間に随分と樹木が増えた。
城下の松山。先刻巡礼した太山寺の山並みも見える。
春や昔十五万石の城下かな。
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道後方面、右の高い山は久万高原の辺りか・・。
- 閉館時間で、天守閣には入れない。