ちゃおチャオブログ

日々の連続

愛媛(伊予一国)ドライブ巡礼(13)宇和島城を下城する。

  • 天守閣横には宇和島城の詳細が紹介されている。

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  • 今日も好天で、遠く石鎚まで見えそうだ。

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宇和島城を下山する。

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打込み接ぎの見事な石垣だ。

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あの台地の上に天守閣が立っている。

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20数年前この城にやって来たのは、二つの本を読んで、実際に見てみよう、と思ったからに他ならない。その一つは司馬遼太郎の「街道を往く」で、四国編だった。四国三郎吉野川流域の町、藍住町とかうだつの町、脇町とか吉野堰は既に見てきていた。司馬は今度は伊予愛媛にやってきて、俳句の町松山を紹介したり、ここ宇和島に来て、お城の紹介をしていた。この城は築城の名人、藤堂高虎が江戸の直前、近江の石工を引き連れて築城したもので、彼の手掛けた幾つかの城の中でも傑作に当たると評価していた。その時琵琶湖の北岸に昔から住み着いていた穴太の石工衆の存在を知り、ああ、日本にも欧州におけるフリーメーソン、Masonryの集団があったのだ、と感心した。後年、熊本城とか菊地の水門橋、藤堂自身の居城、伊賀上野城の研ぎ澄まされたような石垣を見て、彼等石工の技術力の高さを驚嘆することとなった。

それからもう一つの本は、津村節子の真珠養殖と販売を軸にした恋愛もの「海の星座」で、銀座で真珠、宝石店を営む女性主人公が、東京から毎月のように真珠養殖の佐多岬までやってくるというものだった。宇和海の静かさ、情景、八幡浜の段々畑等が目に浮かぶように描かれていた。本の中の主人公はリッチで、松山空港からはそのまま真っすぐタクシーで養殖場までやってくるが、貧乏人の自分にはそんな真似はできず、佐多岬まで行くのは諦めて、真っすぐこの宇和島城に来て、同時に城と海を眺める、というのがその時の目的だった。

「宇和の海 城まで響く ポンポン船」。

藤堂高虎がこの城の城主として住していたのは僅かな期間で、江戸が始まって間もなく当時の伊予の国都今治に転封となり、元和偃武の頃、仙台伊達政宗の子が10万石の城主と入府し、宇和島伊達藩は明治まで続いた。幕末の4賢人と言われる伊達宗城は仙台伊達藩ではなく、ここ宇和島の城主だった。ここには又幕末期高野長英村田蔵六がかくまわれ、当時住んでいた場所などもマップに記載されていたが、今回は時間もなくパスすることにした。

20年前に登城したのは表門、大手門があった場所からで、そちらには二の丸、三の丸の遺構などもある筈だが、そちらに下るとお城をぐるっと半周して又駐車場の場所まで戻る必要があり、止む無く元来た参道を下り降りた。裏参道、400年500年の歳月を経た大きな古木が道を覆っている。江戸の300年、城主も武士も町民も、この木陰の道をお城まで往復した。巨大な石垣は当時のままだ。野づら積みの大きな根石。幕末、この城を訪問した英国ハリス公使も随員アーネスト・サトウも巨大な石組みと技術の高さに一目を置いたに違いない。早朝の良い散歩ができた。

 

本丸の直ぐ下に旧大手門に下る参道が続いている。

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  • 見事な石垣だ。

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  • 旧道の一部は廃道になっている。f:id:commodore:20200711165854j:plain

 

深い樹林帯を下っていく。

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江戸の300年、人々は毎日この道を往復していたのだ。

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