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以前はお城の裏側には回れなかったと思ったが、今は1周できる。
天守閣に登りたかったが・・
隅櫓も立派なものだ。
30年ぶりの松山城はどことなく以前とは違った感じだ。天守閣のある縦長の本丸広場は同じような形をしているが、以前はこんなに沢山の樹木は茂っていなかったと思った。大手門のある辺りから歩いて登ってきて、本丸広場へ出た途端、正面に大きな天守閣が立ち塞がっていて、その大きさ、優美さ、雄渾さに圧倒された。その記憶だけが強く残り、天守閣へも登った筈だが、その記憶はほとんどない。今日は夕刻の時間制限で、今から入場は出来ないが、仮に入れたとしても中までは入らなかっただろう。松山城下十五万石の景色は天守閣へ登らなくても、本丸広場からでも十分見える。瀬戸内の伊予灘までもが、間遠に見える。
以前はお城をぐるりと1周し、裏側から天守閣を見る遊歩道は無かったと思うが、今は裏側まで回って、見ることもできる。どこから見ても眼下の松山の景色は変わらないのだが、お城の弱点、裏側から眺めるのも面白い。軍事専門家であれば、表と裏の防備上の違いも直ぐに気づくだろうが、自分には違いはよく分からない。が、何か窓が少ないようで、黒く塗られた板塀だけが目についた。山の裏側は断崖のようになっていて、ここを登って攻めてくる敵方も想定していなかったのだろう。そう言えば、30年前は、お城の裏側の遊歩道を歩いて降りて行ったが、或いはこの辺りの樹林帯の道を下ったのかも知れない。当時もその小径を歩いて降りる酔狂人はいなかった。
先にも触れたが、最初にここ勝山にお城を造ったのは秀吉配下の賤ケ岳七本槍の一人加藤嘉明で、秀吉亡き後は徳川に付き、関ケ原、大坂夏の陣等で戦功を挙げ、江戸時代になって20万石の太守となって、この城下町も松山と地名を改めたが、その後、40万石の会津若松へ配置替えとなったものの、継嗣に恵まれず、家は没落して行き、明治期の廃藩置県でその家名を聞くことはなかった。同じく徳川の外様、藤堂高虎は隣の宇和島で加藤と伊予一国を争ったが、彼も又今治を加増されたとは言え、30万石に過ぎず、1国1城の城持ちとはならなかった。しかし藤堂はその後、津藩、伊賀上野に転封となり、明治になるまでその地に留まって、爵位を得ている。
以前は時間も体力もあったので、お城に登るのも下るのも歩いて行ったが、それから30年、体力は極端に落ちて、歩いて下る元気もない。帰りはゴンドラに乗って降りることにした。乗客は自分一人。ガイドが一人乗ってきて、僅か5分程度の乗車だが、松山市内の観光案内、道後温泉等のPRをしていた。自分が乗らなければマイクを使う事もなかっただろうが、コロナ禍の悪影響は、いろんな場面に表れている。後で話を聞くと、以前のケーブルカーの事は知らなかったが、10数年前の大災害で、山が崩れ、以前あったケーブルとか遊歩道は全て崩落し、新たにこのゴンドラとリフトを新設したとのことである。30年の歳月は自然の景観をも変えていたのか・・。
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家老屋敷も残されている。
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頑丈な石垣だ。
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天守閣をバックに写真を1枚。
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15万石の城下町。
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帰りはゴンドラに乗って降りる。
- 人口50万人を越える大都会だ。