ちゃおチャオブログ

日々の連続

中国・歴史の旅(81)「鉄塔公園」を後に。

鉄塔を間近に眺める。
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各階、各層にはこうした仏像がはめ込まれている。
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感慨深い鉄塔だ。
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 広々とした公園を歩く。
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 ここは嘗ての仏教寺院。
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本殿、宝物殿等は失われているが、屋根に草生す「接引殿」が一つだけ残されている。
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今この公園内には「鉄塔」と呼ばれる赤レンガ造りの十三重の塔が建っているが、ここは元々は北宋時代の著名なお寺の境内に建立されていた仏塔であり、幾たびかの黄河の大洪水により、ここにはその当時の面影として、唯一この十三重の鉄塔が残されているものである。だから塔を間近に良く見ると、外壁の各階各層に仏像が象嵌されているのが良く分かる。

この塔の下壇は一時洪水の泥で埋まっていたようだが、今は綺麗に修復され、お金を出せば中に入ることもできる。今は公園となっているが、当時は広大な寺の境内の一角であったが、本殿、仏閣、宝物殿等は長い間の仏教凋落と共に打ち毀され、僅かに屋根に草生した接引殿が残されているのみである。

どれだけ古いものか分からないが、接引殿の中には阿弥陀仏もあり、曼荼羅様の壁画もあった。仏教が凋落したとは言え、まだ少なからぬ仏教徒もいて、この寺、案内文によれば「開宝寺」と言うようであるが、帰依している信者もいて、今でもこうして命脈を保っているのかも知れない。

この公園自体が広大なものであり、昔の城壁に取り囲まれた内側にあって、この直ぐ近くには河南大学の大きなキャンパスもあるが、その城壁、中国語では「墻」と呼ばれているが、その案内文を読むに、このは「墻」は戦国時代から建設され、南京の城壁との古代の2大「城墻」と呼ばれているようだが、嘗ての三国時代の「魏」の国の王都と書かれている。

呉魏蜀、の「魏」。「魏志倭人伝」の魏国。卑弥呼の使者が遥か1800年も昔にこの王都までやってきた。そして「漢委奴国王」の金印を持ち帰り博多の那の津に上陸した。壮大なロマンの始まりである。当時、この王都は「東京」と呼ばれていたようだ。明治維新、当時の江戸が東京と改名されたが、その当時の為政者はこの史実を知っての上のことだったろうか。魏の曹操ー邪馬台の卑弥呼ー明治の東京・・・何か見えないところで連綿とした歴史が繋がっているようにも思えた。
 
 
 
 
中に入ると阿弥陀佛像が安置されている。
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曼荼羅様の壁画もある。
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ああ、公園の前方に城壁が見える。
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案内文を見ると、随分古く、戦国時代に最初に作られた城壁で、南京の城壁と2大「古墻」と呼ばれているようだ。「魏」の国都だったのかあ・・。
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