ちゃおチャオブログ

日々の連続

中国・歴史の旅(83)開封「龍亭」の前で。

広い公園でどこをどう歩いているのか分からなくなったが・・
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しかしどこへ行っても水路は良く発達している。
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水郷の地方ではないが・・。
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ありゃ、こんな所にも弥勒佛が収まっている。
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ああ、いつの間にか鉄塔の正面に出てきた。
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「鉄塔」。大同の「木塔」と同じように記憶して置こう。
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「鉄塔公園」の先の城壁の見える湖畔を歩き、その近くの土産物店などに寄って、更に公園内を散策していると、どこをどう歩いてきたのか、再び「鉄塔」の入口近くにやってきた。遠方から再び鉄塔を拝し、今度こそは本当に鉄塔に背を向け、街中に向かって歩いて行く。

日本と中国とは既に唐の時代から活発な交流があって、人物の行き来もあったが、宋に入ってからは、それは更に進展したものと思われる。足利政府による御朱印船、勘定貿易なども整備されてきて、日宋間の往来は飛躍しただろう。そうした多くの日本人商人、僧侶等がこの国に押し寄せ、今自分が歩いている様に、この街の路地を興味津々の面持ちで、歩いていたかも知れない。

日中が同じ文化圏にあるとはいえ、国も違うし、歴史も違う。そもそも話す言葉も違っている。当時の日本人から見たらこの汴亰は異国の地で、見るもの、聞くこと、すべて目新しく、関心の種は尽きなかったに違いない。今もこうして街をあるいていると、路地の一角には昼日向からマージャンに興じている人達がいる。昼間からこうして遊んでいる人の姿を見るのは、当時の日本人にとっては、珍しい事だっただろう。

しかし戦後は誰が流行らかしたのか、今は日本のどの町の駅前にもパチンコ店があって、朝早くからチンチンジャジャラ、パチンコの音を鳴り響かせていて、今の日本人からは他国のこうした日中からの遊興というか、怠け癖の対しとやはや言える立場にはないが、室町時代の日本人にとっては、驚きであったろうし、社会の成熟と映ったかも知れない。そうした心の余裕というか、生活習慣は今に始まったことではなく、1000年、2000年以上も前から庶民の間に染み付いている「文化」と言えるものと思う。現に、湖に釣り棹を垂れている姿は、3000年も前の太公望と変わらない風景なのだろう。

そうした路地とも言えないような通りを足の向くまま歩いて切ると、又々大きな湖の前に出た。湖の手前付近には出島が作られていて、大きな中国風の建物が建っている。ガイドブックによればそれは「龍亭」とのことである。出島に渡る前の広場には大勢の中国人観光客が集められ、これから出島の「龍亭」に向かうようだ。ここに何があるかは知らない。ちょっとしたレストランでもあるのかも知れない。しかし、もう今はもう夕方近くになっている。今日の所はこの島に渡るのは止めて、明日、時間があれば行くことにした。
 
 
 
通りの建物はどこかポルトガル風のものも見える。
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路地の木陰では昼間からマージャンに興じている人もいる。
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将棋を指す人も。
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いやー、皆さん、昼間から気分が乗ってますね。
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ああ、又大きな湖に出てきた。
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先刻の城壁の湖よりも大きそうだ。
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ああ、湖の中程に建物がある。
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ああ、出島になっていて、あれが龍亭なのか・・。
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