越秀公園の城壁前で記念写真を撮っている観光客。
城壁の説明。中国語では城墻と呼ぶ。
城壁と樹木の根の壮観だ。
ここは夜はライトアップもされているようだ。
城壁を後にして、山頂の孫文石碑に向かう。
今回のこの旅行記は、ブログ継続中にパソコンがウイルスに汚染され、一時使用不能になったり、新たに買ったパソコンの不手際等もあり、しばしば中断しているが、更にまた間に中国旅行などもあったっりして、一昨夜、その4日間の旅行から帰宅し、今日から漸く再開することになった。
前回までは広州・流花湖公園から市内の裏通りを歩いて次の越秀公園までやって来て、最初に五羊石像を眺め、引き続き古城址の頑丈な石造りの城壁と、それに絡みつくような生命力の強い樹木の毛根を眺め、最後に、この公園の一番高い小山の頂上に立っている孫文を顕彰する記念碑まで向かうことにした。午後の遅い時間、帰りのことも心配になったが、それでも何人かの人々が小山の上に向かって歩いて行く。尤もそれ以上に多くの人々が、頂の方から下り降りてくる。矢張り、この場所が人々にとって、最高の最終スポットであるに違いない。
坂を上るにつれて市内の景観が眼下に開けてきて、中国のどこの都市にも見られるように、高層ビルが木の枝越しに見えてくる。近代的な都市美だ。樹木の上を見上げると、山頂に大きな石柱が建っている。孫文記念碑だ。記念碑の周辺にはまだ数人の人々がいて写真などを撮っている。孫文は中華民国の創始者で、共産主義とは直接は関係ないが、近代中国の独立の獅子、国父として多くの中国人に尊敬されているに違いない。
最後の石段を登り、碑の前に立つ。黄色い中国の石、安山岩と思われるが、立派な石碑だ。基壇の所に説明書きが彫られていて、見ると、中華民国18年に孫文の為にこの石碑が立てられた、とのことだ。中華民国18年が西暦で言うと何年になるのか不明だが、いずれにしても当時、この地は中華民国の支配下にあったのだ。中華民国は太平洋戦争が終わって暫く後まで、中国の殆どの地域を支配していたので、中華民国1年は当然それ以前の事だったに違いない。山頂に立つ石碑を一巡し、眼下の広州市を眺め、最後に1枚の記念写真を撮って、山を下りることにした。
前回までは広州・流花湖公園から市内の裏通りを歩いて次の越秀公園までやって来て、最初に五羊石像を眺め、引き続き古城址の頑丈な石造りの城壁と、それに絡みつくような生命力の強い樹木の毛根を眺め、最後に、この公園の一番高い小山の頂上に立っている孫文を顕彰する記念碑まで向かうことにした。午後の遅い時間、帰りのことも心配になったが、それでも何人かの人々が小山の上に向かって歩いて行く。尤もそれ以上に多くの人々が、頂の方から下り降りてくる。矢張り、この場所が人々にとって、最高の最終スポットであるに違いない。
坂を上るにつれて市内の景観が眼下に開けてきて、中国のどこの都市にも見られるように、高層ビルが木の枝越しに見えてくる。近代的な都市美だ。樹木の上を見上げると、山頂に大きな石柱が建っている。孫文記念碑だ。記念碑の周辺にはまだ数人の人々がいて写真などを撮っている。孫文は中華民国の創始者で、共産主義とは直接は関係ないが、近代中国の独立の獅子、国父として多くの中国人に尊敬されているに違いない。
最後の石段を登り、碑の前に立つ。黄色い中国の石、安山岩と思われるが、立派な石碑だ。基壇の所に説明書きが彫られていて、見ると、中華民国18年に孫文の為にこの石碑が立てられた、とのことだ。中華民国18年が西暦で言うと何年になるのか不明だが、いずれにしても当時、この地は中華民国の支配下にあったのだ。中華民国は太平洋戦争が終わって暫く後まで、中国の殆どの地域を支配していたので、中華民国1年は当然それ以前の事だったに違いない。山頂に立つ石碑を一巡し、眼下の広州市を眺め、最後に1枚の記念写真を撮って、山を下りることにした。
小山を登るにつれて視界が開け、木の間越に広州のビルなどが見えて来る。
小山の頂に大きな石碑が建っている。
ああ、孫文記念碑だ。立派なものだ。
基壇の部分に説明書きがある。