ちゃおチャオブログ

日々の連続

江南周遊(42)清朝邸宅を出て次の公園へ。

庭園を散策するツアーのメンバー。

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木造の建物は昔風で、清朝時代を思わせる。

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室内の講義室。儒教を勉強していたのか・・。

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無錫は歴史の古い街で、今から2000年程前の後漢が衰退し、呉魏蜀の3国が覇権を争っていた当時、ここは呉の孫権の支配する主要都市だった。当時の王都はここから200キロ程長江を遡った建業(今の南京)にあり、呉と蜀が連合し魏を破った赤壁はそこから更に500キロ以上遡った場所にあり、今現在新型肺炎コロナウイルスで問題になっている武漢市の近くでもある。

 

そんな古くから発展したこの市は鉱物、鉱山なども豊富で、以前は有錫市と呼ばれていたが、この三国志の時代には、錫はすべて掘りつくされて、町の名前も無錫に変更させられた。鉱物を産する土地で、昔からそうした工業が発達していて、ここではお茶の急須や湯飲みの窯業なども発達していた。自分は今回のツアーでは買わなかったが、前回訪問した時は朱泥の急須を買って今でも使っている。色も形も常滑の急須とそっくりで、多分土の質が同じではないかと思っている。

 

この贅沢な屋敷が誰のものだったかは知らないが、この町は商業も発達し、三国志の後の時代の隋の煬帝が最初に大運河を掘削した時、運河はこの町を通過するように造られた。当時の流通の要衝、工業商業の盛んな町で、ずっと後世の現代まで続き、日中戦争の時もこの町の制圧は日本軍に取って、重要な戦略だった。徐州、無錫を制圧し、その上で南京落城が可能になったのだ。この屋敷の造りは前世紀、戦前の清朝時代のようであり、そうした商業か工業で成功したお金持ちが作ったに違いない。さて、この庭園を一巡し、次に三国志の時代からあった景山、錫山の麓の公園に向かうことになった。

 

室内から中庭の様子も見える。

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この邸宅を後に次の史跡に向かう。

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次に向かうのは三国志の時代だ。

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