ちゃおチャオブログ

日々の連続

秩父観音霊場お札巡り(5)七ケ寺霊場「四萬部寺→大慈寺→常楽寺→慈眼寺→少林寺→定林寺→西光寺」。

慈眼寺の次に参詣したのは第十三番「少林寺」。
 
 
 
この寺も明治の大火災で焼け落ちたが、その後、防火用に漆喰造りで再建された。
 
 
 
2年前、中国の少林寺へ行ったが、何か関係あるのか・・。高崎の少林寺は達磨さんだが・・。
 
 
 
本堂の前で先達さんの説明を聞くツアー客。
 
 
 
白の漆喰造りが美しい。
 
 
 
 
 
今まで四国八十八ケ寺霊場巡りとか、その他、幾つかの札所巡りをしたこともあるが、この「お札」の意味が良く分からなかった。何かお寺巡りをする「手形」のような意味合いで、写経を納める代用の短冊をお札と称し、各寺にその短冊(御札)を納経代わりに収めるので「お札参り、お札巡り」と言うのかと思っていた。しかしそれはどうも自分勝手な解釈だったようだ。

この秩父霊場の第十三番札所「慈眼寺」に参詣した時、その山門の横に石柱が建っていて、そこには、「第十三番補陀所」と彫ってあった。「補陀所」の文字は当方に取って、衝撃的だった。そうだったのか・・・、「札所」と「補陀所」。この「札」は「補陀」だったのか・・。目から鱗が落ちるとは将にこのことだった。「慈眼寺」は名前の通り、「目のお寺」。この「慈眼寺」に参詣することにより、当方の眼疾が落ちた、という事だった。

「補陀」とは「補陀落」のこと。「補陀落」は鎌倉以降の日本仏教界に於いて、永遠の聖地であり、死後の魂が行きつく所、と思われていた。それは天竺(印度)にある高い山で、「補陀落山」と言われ、現代に即して言えば「ポータラカ」。それが転訛して日本に於いては「補陀落」と呼ばれるようになった、その場所だ。古来、人々は死後の天国を求め、たらい舟に乗って「補陀落」を目指した。所謂「補陀落渡海」である。

そうか、お遍路、お札参り、は補陀落渡海の異形、いや異行だったのか・・。巡礼者は知らず知らず補陀落への道を歩んでいたのだ・・。慈眼寺ではたと考え着いた「札」と「補陀」の同一性。これは何も語呂合わせでもなく、真実なのだろ。そう思うことにして、この寺を出て、次の少林寺に向かった。

第十五番札所「母巣山・少林寺」は、嘗て、ここも又2年前に羊山同様に来た場所だった。その時は札所巡りの目的ではなく、この寺には明治の初め頃の農民暴動、秩父事件に際し殉職した警察官のお墓があり、その当時の内務卿、警察組織のトップであった、山県有朋が碑文がる。明治政府の暴動鎮圧にかける並々ならぬ決意の程を知るために、この寺に寄ったのだった。(2年前の訪問記=
http://blogs.yahoo.co.jp/ciao3776/5394378.html

しかし今日の参詣はお札参り。先達さんから少しその話もあったが、参加者は殆ど無関心で、御堂に向かって、心経を唱えるだけで、誰一人石碑の方へ行って、眺めようとする者もいない。当方も遠慮がちに遠くから石碑をさっと写真撮影し、この寺を後にした。
 
 
 
 
境内の墓地にある殉職警察官のお墓。
 
 
 
当時の内務卿、山県有朋候による碑文。
 
 
 
境内はこじんまりとしているが、花壇が綺麗だ。
 
 
 
芍薬の花が芽吹いている。
 
 
 
ああ、カタクリの花が咲いている。
 
 
 
漆喰造りの花の寺を後にする。