ちゃおチャオブログ

日々の連続

ラオス北部紀行(39)ジャール平原「第2サイト」を見終え、昼食へ。

第2サイトのもう一つの丘に登ってみる。
 
 
 
同じような石棺がごろごろしていた。
 
 
 
林の中にも幾つも転がってた。
 
 
 
ここでは石棺の蓋も風化し、土に埋もれている。
 
 
 
随分大きなJarが横たわっている。偉い人か金持ちの人のか・・
 
 
 
樹木に覆われたシェムリアップの遺跡を発見したのはフランス人だったが、ここラオスもフランスの植民地。こうしたJarを発見したのはフランス人だったかも知れない。
 
 
 
 
 
第2サイトは二つの小高い丘からなっていて、約30-40mの高さの丘から眺める平原の景色は、それ程代わり映えのしないものだが、その丘に登ってみないことには何があるか分からない。丘の麓には管理事務所があり、土産物や食堂なども併設されいるが、その管理事務所の前の緩やかな長い坂道を歩いて行った先の、先ずは左手の丘を先に登ることにした。

第1サイトでもそうだったが、ここでもそう。これだけの広大な施設に観光客は殆ど来ていない。こんな山奥の石棺遺跡や爆弾の投下跡などを見に来る酔狂な観光客はそれ程いないのかも知れない。同じ石の彫刻でもイースター島のモアイ像とは、歴史も趣も人気の度合いも随分と違っているのだろう。

観光客はやって来なくても、丘の周辺とか、管理事務所、そこからの連絡道路、等々はかなり整備されている。日本かどこかの先進国が、ODA援助か何かの名目で周辺整備をしているに違いない。お金も払わず、この国の人達に任せ切にしておいたら、数年もしない内に又草ぼうぼうのジャングルに戻ってしまうだろう。ここに住む人々にとって、「Jar」が文化遺産になるとか、どうとかはそれ程重要なことではない。先進国の人々がこうした遺跡を有難がり、お金を振りまいてくれ、なにがしかの外人がやってきて、案内人を喜ばせ、ちょこっとした土産を買ってくれれば十分だ。後は国連乃至ユネスコ資金がふんだんに降りてkる。

表面が風化し、苔むし、人の背丈よりも大きな石棺の底部から穴の空いた空を見上げ、千数百年野ざらしになった石の塊が、近年、パテトラオの活躍により急に脚光を浴び、今や金のなる木になっているのを思う。人間の営みなどそんなものかも知れない。辻政信が生きていようが、どこかで野ざらしになっていようが、1000年、2000年の人間の営みからすれば、どうでも良いこと、小さい。小さい。

丘を下り、管理事務所の隣に併設されている食堂で、案内人の勧めるラオス麺を食べる。麺の中に野菜を自由に入れてい良い、というので、沢山の野菜を継ぎ足して、野菜ソバみたいにして食べる。美味しい味だった。彼は英語が出来ず、当方はタイ語は殆ど話せない。ただ美味しそうにソバをすすって、お互いの顔を見合わせるだけなのだが、この初老の日本人は彼の目にどう映っただろうか。悪い印象は与えてない筈だ。又一人日本人のフアンが増えれば、本望だ。
 
 
 
 
人の背丈よりもこんなに大きな石棺。発見当時のフランス人は、この石棺が何の目的で、ここに置かれているのか理解できず、単に「壺」、「ジャール」と名付けた。
 
 
 
石棺の下から上の穴を覗くと、青空が広がっていた。
 
 
 
石も風化し、半ば、樹木と一体化している。
 
 
 
このジャングルの奥にも、Jarは密林に覆われ、転がっていた。
 
 
 
麓の食堂で、ドライバーと一緒に食事だ。
 
 
 
今朝市場で沢山の野菜売りを見たが、この麺に沢山の野菜を入れて食べる。
 
 
 
ハイ!ラオス風麺の出来上がり!