ちゃおチャオブログ

日々の連続

ボロブドールへの3日間(42)ジャカルタの中国寺院「金徳院」。

さあ、中国寺院「金徳院」に入って見よう。それ程大きなお寺ではなさそうだ。
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うーん、出入口付近には何人か物貰いが参詣者を待っている・・。中国系ではなさそうだが・・
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内部はどこから見ても中国と変わらない。
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ここへ集まってきている人々も中国系だ。
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大乗の仏。
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中国風の大きな蝋燭と線香が立ち並んでいる。
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本堂の中は線香の煙でもうもうとしている。
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十二神将、五百羅漢か、この寺の高僧か・・
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インドネシアの首都ジャカルタは何時頃からこのように呼ばれてきたのだろうか。当方の知る限り、この町は江戸時代を通じバタビアと呼ばれてきていた。バタビア総督の使節船が長崎までやって来て、幕末にはシーボルトが長崎よりオランダ船に乗って密かに出国しようとし、嵐に遭って失敗した。

この時代、オランダと共に自由な貿易が許可されていた中国人、即ち華僑は、長崎~香港~バタビア~コタバル~マラッカ等々、アジアの海洋を自由に往来し、あまつ、その土地に住み着いた。アジアのこうした古い港町では、中国人街が形成され、時の主権者と結びついた中国商人は、広範な利権と強い商権を持ち、現地住民の上に君臨していた。従って、どこの港町でも、中国人華僑は、現地人からは嫌われていた。だからこそ、彼等はひと塊になって住み着いたのかも知れないが。

そうした中国人居住地の中には、海の神、馬頭観音や大悲観音像を祀る仏教寺院とか関帝廟孔子廟や道観等々、本国中国をそっくりそのまま持ってきたような宗教施設が人々の寄進で建立されたが、嫌われ者の中国人は事ある毎に攻撃の対象とされ、そうした施設も打ち毀しの対象となった。このジャカルタでも幾たびかそうした排斥運動に晒され、現在も残っているのは今いる「金徳院」位だ。実際この「金徳院」境内にいる限り、中国にいるのと変わらない。

ここジャカルタの中国人街はコタ駅周辺に広がっていて、即ち場所的には昨夜夕食を食べた総督前広場の横を流れる運河の延長線上にあり、嘗ては荷揚げの艀が総督前広場の倉庫街で荷揚げをし、更に残りの貨物がそこから1キロ程も陸地に入ったこの辺り、中華街を最終の荷揚げ場にしていたようだ。そうした中国臭の漂う街中に「金徳院」があった。ここに住む人は、2世3世4世の中国人で、お寺に参拝に来る人も、勿論中国人に限られている。

境内の入り口付近には乞食のような数人が地面に座り込んでいて、参詣者が現れると手を差し出して何がしかの恵みを求めている。中国系の貧しい末裔とも思えない。どうみてもインドネシア人の貧困層のようだ。当方も中国人と間違えられたのか、皆、サワサワといざり寄って来て、両手を差し出す。もう何百年も前からそうであったように、ここでは中国人は金持ち人種で、現地人は一段下だ。人々の意識の中に染みついているようだった。ご本尊と思われる南海観音菩薩にお参りし、境内を一巡し、外に出た。




ああ、Vihara Avalokita,観音寺院だ。
「南海観音寺」(ナムハイ クアンノン シ」と書いてある。
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観音菩薩はどこだろう・・
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熱心にお参りしている人もいる。
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ああ、ここでは密葬も行われているのか・・
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遺影も飾られている。
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物日ではないので、今日は参詣者が少ないようだ。
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ああ、寺院内にはこんな診療所も併設されている。日本で言えば「施無畏」か・・
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華僑の歴史、日本、オランダとの関わり、考えさせられるところも多かった。
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