この辺りは眉山の麓にあり、古い寺社などが並んで建っている。
ここは國瑞彦神社。「国みずひこ」ではなく「国たまひこ」と読む。
八幡神社山門。
江戸時代に造られたこの山門は、県指定の文化財になっている。
ヴィンセスラウ・モラエスが昭和4年(1929年)6月、75歳で亡くなる最晩年の10数年を過ごした徳島市新町の長屋は現在は取り壊され、その辺一帯は今は小奇麗な住宅地になっている。付近には昭和初期の面影は殆ど残されていないが、僅かに通りの地名として「モラエス通り」が残されているだけだ。尚、先ほど通りすがりに見て来たが、新町小学校正門わきにはモラエスの半身像が立っていて、その背部には彼の実績が記載されていた。この小学校に通う児童は授業の中でモラエスに関しての教科があるに違いない。彼は既に徳島の歴史の中に根を下ろしている。
瑞巌寺の境内を出て、再びモラエス通りを歩く。人通りの全くない住宅地の道路。車も希にしか通らない。午後の日差しが高い。この辺りは眉山の麓に当たり、山裾には緑陰も多く、この瑞巌寺始め、古い仏閣寺社も多い。今では市内の高級住宅地の部類に入っているだろう。
瑞巌寺の先には國瑞彦神社、八幡神社、家神社、と、それぞれ由緒あり気な神社が並んで建っている。これ等の寺社は蜂須賀がこの地に入部して以降創建されたもので、歴史的にはそれ程古いものではないが、時既に400年を経た今では、境内の鬱蒼した樹木、古めかしい山門、等々、この町の歴史と信仰を感じさせるものがあった。徒歩数分の場所に住んでいたモラエスも、朝な夕な散歩に訪れていた場所に違いない。
八幡神社の境内には、全く初めて見るような漢字で彫られたすすぎ水がある。「漱盥」。「そうかん」とでも読むのだろうか・・。勿論モラエスは日本語は喋れても、漢字までは読めなかったら、こんな難しい文字を見たとしても、すぐさまパスして、頭の片隅にも残らなかったに違いないが・・。この静かな通りを阿波踊り会館の方向に向かって戻り、その横にある「天神社」に向かった。
< 古き町 午後の日差しに 人も絶へ >
瑞巌寺の境内を出て、再びモラエス通りを歩く。人通りの全くない住宅地の道路。車も希にしか通らない。午後の日差しが高い。この辺りは眉山の麓に当たり、山裾には緑陰も多く、この瑞巌寺始め、古い仏閣寺社も多い。今では市内の高級住宅地の部類に入っているだろう。
瑞巌寺の先には國瑞彦神社、八幡神社、家神社、と、それぞれ由緒あり気な神社が並んで建っている。これ等の寺社は蜂須賀がこの地に入部して以降創建されたもので、歴史的にはそれ程古いものではないが、時既に400年を経た今では、境内の鬱蒼した樹木、古めかしい山門、等々、この町の歴史と信仰を感じさせるものがあった。徒歩数分の場所に住んでいたモラエスも、朝な夕な散歩に訪れていた場所に違いない。
八幡神社の境内には、全く初めて見るような漢字で彫られたすすぎ水がある。「漱盥」。「そうかん」とでも読むのだろうか・・。勿論モラエスは日本語は喋れても、漢字までは読めなかったら、こんな難しい文字を見たとしても、すぐさまパスして、頭の片隅にも残らなかったに違いないが・・。この静かな通りを阿波踊り会館の方向に向かって戻り、その横にある「天神社」に向かった。
< 古き町 午後の日差しに 人も絶へ >
八幡神社、そそぎ口、「漱盥」と彫られている・・。「そうがん、そうかん」か・・
直ぐ後ろには眉山が迫って来ている。
明日は1日時間がある。10年振りにこの山に登って見よう。
八幡神社を出て、次に天神社に行って見よう。