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日々の連続

「サウダーデ」モラエスが住んだ町(48)須磨寺の句碑・歌碑・文学碑。

敦盛首塚の奥には、この寺の万霊堂と墓地があった。
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大きなお寺でお墓も沢山建っていた。
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ああ、芭蕉に似た像だが・・。
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芭蕉に似ていたが、誰か戦前のお偉いさんだ。芭蕉は墓地にはいないか・・
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ああ、ここには連句の句碑がある。
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須磨寺源平合戦にゆかりのあるお寺で、江戸時代以降、多くの文人が訪ねることとなった。その多くは海の藻屑となって消えてしまった平家への憐れみと、数え17歳で討死した敦盛に対する哀悼もあっただろう。特に江戸中期以降、俳句が一部好事家の間に広まり出すと、芭蕉を初めとする多くの俳人も訪ねてくるようになった。神戸在住のモラエスに俳句の嗜みがあったとは聞いていないが、自宅よりほんの数十キロ、この古刹を何回か訪ねて来ているに違いない。

明治半ば以降、正岡子規夏目漱石等により、俳句が広く国民一般の中に浸透してきて、そうした関係者の訪問ニュース等に接し、モラエスも心を動かされたに違いない。が、俳句、5-7-5、のごく短いフレーズでのポエムは、外国人の彼にとっては理解できる範疇を越えていて、それは又同時代に生きたラフカデオ・ハーン、即ち小泉八雲にも言えることであって、彼等の日本紹介の随筆、旅行記などには俳句については触れられていない。

俳句が漸く西欧人に理解され、作句されるようになったのは、戦後も暫らく、ごく最近のここ十数年のことだろう。日本は西洋の文物を取り入れ、急速な文明開化を果たした。が、日本の文化文物の外国への逆文明開化は100年経った今、漸く満開になりつつある。しかし、この寺の境内のあちこちに句碑、歌碑、石碑、解説板が立っているが、残念ながらまだ英文での句碑、歌碑はない。モラエスが亡くなってほぼ100年、そうした石碑が境内に立てられるようになるには、更に後100年待たねばならないのだろうか・・。

この寺ではそうした参詣者向けに印刷された案内文がプリントされていて、それを見ると主な句碑、歌碑、文学碑は合計で24基。主だったものを挙げると、良寛さんの「須磨紀行」、陳舜臣漢詩須磨寺有感」、山本周五郎の文学碑「須磨寺付近」、正岡子規与謝蕪村、伊丹三樹彦、尾崎放哉、松尾芭蕉等々の句碑があった。

松尾芭蕉の「須磨寺や ふかぬ笛きく 木下闇」は丁度庫裡の前辺りの庭木が茂った木陰にあって、この句の通りの木下闇だった。「笛の音のしない音を聞く」。芭蕉らしい作句で、「古池の音」、「蝉の声」、などと同様に、音に敏感な蕉翁らしい句であった。芭蕉はこの時、江戸から東海道を下り、伊勢神宮に参詣し、郷里伊賀上野で墓参し、その後更に大阪から姫路まで行く旅の途次だった。この時の紀行文は「笈の小文」として纏められ、この中の、

         「旅人と 我名呼ばれん 初しぐれ」

実に旅好きの芭蕉にピッタリの句であった。



ああ、これは子規の句碑だ。「暁や 白帆過ぎ行く 蚊帳の外」。
子規も又眠れない夜を過ごしたのか・・
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これは又誰の句だろう・・。芭蕉ではない・・。
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ここにも又一つ。誰の句か・・。
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ああ、木下闇がある。こんどこそ、芭蕉の句に違いない。
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矢張りそうだ、芭蕉の句だ。
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矢張り芭蕉だ。「須磨寺や ふかぬ笛きく 木下闇」。はせを
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