ちゃおチャオブログ

日々の連続

「サウダーデ」モラエスが住んだ町(51)須磨離宮公園の汐見台にて。

高台を登った先は広い庭園になっている。木の間に噴水が見える。
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ああ、これは見栄えの良い噴水だ。
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噴水が空高く噴き上げている。縦列噴水の先の高台に建物がある・・。
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ああ、今はガラス張りのレストランになっているが、以前はここに離宮が建っていたのか・・。
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しかしお客は誰もいない。眼に付くのは草刈りをしている庭師だけだ。
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ここは以前からそうだったのか、公園に変更された際に模様替えしたのか、西洋風の公園になっている。
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須磨離宮が明治の終わり頃、天皇家の別邸になる以前は西本願寺大谷家の所有であり、ロブノール、タクラマカン等の探検で有名な大谷光瑞法主天皇家外戚であった為、そうした背景からかどうなのか、天皇家に譲り渡され、売却されたものだった。離宮の建設は明治の終わりころから始まって、大正の早い時期に完成した。

当時モラエスは神戸でまだ領事をしており、離宮が完成した大正の初め頃には妻おヨネを亡くし、その直後には徳島へ移住した。従って、この須磨の地に豪壮な天皇家別邸、即ち皇宮離宮が完成した事はニュース等で知っていただろう。然し妻を亡くし、茫然自失の思いで徳島に永住することを決めた彼は、その後殆ど徳島を離れることはなく、関心も持っていなかっただろう。ポルトガルでは数年前に王政が倒され、既に共和制に変わっていた。

高台の上の庭園は西洋風の庭園として造られていて、全長200mを越える長さの噴水の列が並び、その両端には大噴水が水を噴き上げ、様々なシェイプ、シルエットを作っている。上野公園の博物館の前に似たような噴水の従列があるが、ここの方が列も長く、大噴水の水圧も圧倒的に高い。先年インド旅行した際に泊まったマハラジャの豪華な庭園を思い出す。噴水の両側にはバラ園とか、洋風の草花で彩られ、春秋の花の季節には見事なものだろう。

噴水の放列の一番奥まった部分が人工的に盛り土をして一段高くなっていて、そこには横長でガラス張りの見晴らしの良いレストランが建っている。が、今日の公園、来園者は誰もおらず、行ってもレストランは開いてはいないだろう。200mの放列を歩くのも面倒になり行くのは止めたが、遠くから見てもそこが嘗て、太平洋戦争末期に米軍の爆撃を受けて消失した武庫離宮が建っていた場所と思われる。古い白黒の写真で見る限り、この横長のレストランと同じような形状をしていた。

25歳で即位した昭和天皇は当時まだ満州国が建国される以前の、後の初代皇帝愛新覚羅溥儀を日本に招き、ここの離宮に暫らく逗留してもらった。庭園高台の海に面する先端部分は見晴らし台になっていて、「汐見台」という凝った作りのテラスになっている。今は目の前に高層マンションとか建物が立て込んでいて、眺望も部分的に妨げられているが、溥儀が逗留していた当時には、この高台から真っ直ぐ前方に海が見渡せただろう。

一衣帯水。この海の渡った先に満洲がある。歳若き昭和天皇と5歳年下の愛新覚羅溥儀辛亥革命により清国が崩壊して数年、若き天皇と初代皇帝。二人はこの汐見台に佇み何を語り何を夢見ていただろうか・・。視線の右端には一の谷の山並みも見渡せる。この時から僅か20年も経たない将来に、二人に襲う過酷な運命、激変の運命に翻弄されることになろうとは、全く予想もできなかっただろう。ビルの間に見える紀淡海峡は今日は凪いでいた。
 
 

          < 汐見台 二人の先に 灘の海 >
 
 
 
レストランの反対側、海寄りの方に見晴らし台が作られている。
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ああ、立派な御影石のベンチだ。
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誰かは知らないが、福羽逸人さんという戦前に活躍した西洋庭園の建築家により作庭されたようだ。御影石は小豆島産とある。
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今は建物で視界が妨げられているが、当時は、須磨浜も紀淡海峡も、目の前に見えただろう。
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右手には一の谷の山並みも見えている。
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昭和天皇愛新覚羅溥儀王。この汐見台に立ち、何を語らったか・・。
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