ちゃおチャオブログ

日々の連続

村上春樹、多崎つくるを読む。

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好天の文化の日、野川へ出る。秋の柔らかな日差しの下で、昨日図書館から借りた村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読む。村上春樹に関しては名前だけは知っていたが、嘗て読んだことはなかった。それが数年前、1Q84が発表され、ノーベル賞の最有力候補に名前が上がり、メルボルン在住のこまさんが、面白い本で睡眠もとらず夢中で読んだ、との話を聞き、自分も読んでみようと思った。

1~3巻本の、超長編小説で、全部を読み終えるのに数日間を要したが、ボリュームの割には奇想天外な内容で、読後感もそれ程残らないものだった。この内容ではノーベル賞は無理だろう、と当時こまさんに伝えたが、案の定、この年の賞は中国人の莫言が受賞することになった。彼は以前に福岡アジア文化賞を受賞していて、アジア出身作家としては有力な候補者であった。

それから4年、村上は毎年のようにノーベル賞候補に名前が挙がっていたが、今年はミュージシャンのボブ・デランが「文学賞」を受賞することになった。村上もノーベル委員会から余程か嫌われているのか・・。自分も1Q84の3冊巻を苦労して読み終えてから、海辺のカフカだったか、房総の海辺の町を舞台にした小説も読んでみたが、それ程面白い内容でもなく、途中で放り投げてしまった。1Q84の後、この「多崎つくる」が出版されたが、手にすることもなかった。

それが今回デンマークアンデルセン文学賞を受賞し、その受賞スピーチで人間の二面性、表と影の部分、それは国家や社会にもあり、その影の部分と如何に調和し折り合いをつけていくか、そんな処をテーマとして次の作品を書いて行きたい、と言ったような内容のスピーチを英語で行った。アンデルセン文学賞は隣国スウエーデンの文学賞選考委員に強い影響を与えるものであり、今回ボブデランのすったもんだの末の受賞で、次回は村上が以前にも増して有力候補になると思われる。

そんなこともあって、今回3年ぶりに村上作品を手に取った訳だが、少なくとも「多崎」は前作の1Q84よりは纏まりもあり、話の飛躍もなく、現実に即した(と思わせる)内容で、荒唐無稽感は殆ど払拭されていた。少なくとも内容的に1Q84よりはかなり進歩洗練されているようには思えた。

人間には目には見えないが個々人が光を持っている。強弱があり、見る人が見たらその光の強弱を見分けることができる。小金井市在住の、これは当方の居住地と同じで、ちょっと驚いたが、余命1か月と宣言されたジャズピアニストの言葉。その特殊能力の取得と引き換えに、寿命が1か月と決められる。ステイーブン・キング程ではないが、オカルトチックなストーリーで、その能力を得れば、今までの人生は全く平板で陳腐なものに見え、人間のステージが一段上がった、と認識された。だから死ぬことは何ら怖くもないし、直ぐにやって来る死を逍遥と受け入れている。痛快な発想であったが、この部分をもっと膨らませて、敷衍していけば、もっと面白い小説になったかも知れない。その点、大学の2年後輩の灰田青年が突然姿を消し、その後登場しなくなったのは、残念な気もした。

多崎の巡礼はこの大学時代から16年後に突然に始まるのだが、16年はオリンピックイヤー、西洋暦で言えばOne Decadeだ。一つの区切りとしては程よい期間かも知れない。丁度昨日、テレビ東京が神谷町のサテライトスタジオから16年ぶりに別の場所に移転し、来週から新たな放送をスタートさせるが、このサテライトには小池百合子氏も嘗てはキャスターとして働いていた。実に16年は一時代の区切りになるのだろう。

リスト「巡礼の年」が何年間に亘って行われたのか、音楽に詳しい訳ではなく詳らかではないが、村上の頭の中にはもっと超長期のニーベルンゲン等があったかも知れないが、20歳の大学生から36歳の社会人への変換は程よい期間だったかも知れない。彼は音楽に詳しく、灰田青年にシューマンメンデルスゾーンの曲の違いを語らせているが、リストの最も有名な曲は単調なピアノ音の繰り返しの「前奏曲」であり、この「巡礼の年」は余り知られたものではない。多分、この小説の題名のテーマとして採用されたのだろう。素人目には同時代のショパンシューマン、メンデルゾーンを超えるものではないと思う。

高校時代の旧友のシロこと白根は6年前の30歳の時に浜松のアパートで虐殺死体で発見されたが、彼女が亡くなる直前浜松で会った同じ旧友のアカこと赤松は彼女から嘗ての輝きが失せ、光りの無くなった元アイドルに衝撃を受けたが、その後の無残な死は、この人の輝き、光を象徴していた。小説の中には書かれていなかったが、「精気の又は生気の失せた」とは日常の日本語でも普通に使われている言葉であり、人が生きているという事は、何らかの光を発しているに違いない。

ノーベル賞の観点からすれば、多崎がアルバイト先の女子事務員とセフレの関係になった描写は不要なものだった。一応は倫理観の強い選考委員にとっては、婚約者のいる結婚直前の女性が多崎と淫らな関係になる部分は大きなマイナス評価になり、日本の性モラルが蔑まれるところである。

又、沙羅との関係もデート3回目にして事に及ぶ描写は日本女性のふしだら感を助長させるものであり、品行方正と思われる委員諸氏を落胆させたかも知れない。村上ともあろう者が北欧のフリーセックスをミスリードしたとも思えないが、彼女達は現代日本人よりもモラルは高いかも知れない。いずれにしても性描写に巧みなヘンリーミラーやアップダイクが選に漏れているのはそれ等潔癖性であろう委員諸氏から忌避されたのが理由だろう。

巡礼の最後にフィンランドが出て来て、嘗ての5人仲間の一人クロこと黒埜がフィンランド陶芸家と結婚し、かの地に生活しているが、その連れ合いの名前エドヴァルドや旅行エージェントのオルガにしてもスエーデン系の名前で、敢て受けを狙ったのかサービス精神からなのか、更に森の中の湖ハメリンナは夏の避暑地でも有名で、多分選考委員も一度や二度は行っているであろうし、彼等に取って好感のもたれそうな最後の描写になっていた。惜しむらくは中程にある事務員とのセックス描写で、この部分が次期選考で足を引っ張らなければよいがと、願う次第である。この小説の中では全く不必要な部分になっている。

彼はまだ63歳、「海辺」から「1Q84」、それと今作。成長、深化の跡は歴然で、もしも次回逃しても、この成長が続けば、3人目の日本人受賞者となることは疑いない。
この小説の最後は多崎が今最も必要とする相手、沙羅と翌日会い、沙羅からどのような返事をもらうのか「空白」の状態で終了しているが、その回答については読者の想像に任せるのは良いとしても、この結末次第によって、次回作品の展開が予想される。愛し合う男女二人が「手を繋ぎ或いは凭れかかつて」歩く姿。それは明日の沙羅からの回答を予言するものであり、続編があるとすれば、沙羅との別れ。又新たな別の巡礼の第一歩となるものであろう。その時が多崎にとっての真の意味の巡礼になるかも知れない。その際、一段と成長した灰田青年を再登場させるのは良いだろう。小金井のジャズピアニストと同じ一段高いステージへ駆け上る巡礼になるかも知れない。そうした期待を持たせる最後であった。

野川の秋の好天の下、本の上に止まった塩辛トンボ。更に大胆に指先にまで近づいて来る。誰かの霊に違いない。去年亡くなった姉の霊がトンボに仮託し近づいて来たのだ。多分最後のお別れを言いに。あの世では無事に過ごしているよ。と。


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