ちゃおチャオブログ

日々の連続

先生と平賀源内。

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江戸時代中期の学者文化人兼実業家の平賀源内。自分の知っていることと言ったら、「エレキテルの源内」、程度だったが、数か月前、先生の小論「李魚と風来山人」を読み、李魚は当方にとっては到底歯の立たない相手で、最初から諦めていたが、源内だったら或いは読み進められるかも知れないと、市立図書館から岩波「風来山人集」、中央公論「日本の名著」などを借りてきて、読もうとしたが、幾ら日本語とはいえ、今から250年程前の江戸時代の言葉。それはそれで、簡単に考えていた程には読むことも出来ず、貸出期間は殆ど頁もめくらない内に来てしまって、返却を迫られた。

それ以降、再借出しはしないで、日時は経ったが、今度、先生と再会することになり、全く何も読まずに先生にお会いするのは失礼と、解説本ではあるが新潮社から出ている稲垣武の「平賀源内・江戸の夢」を読むことにした。読み始めてみて、源内の異能、優れた発明家であり、行動力、国を思う事大であり、又一方で小説・戯作・俳句なども物しており、多彩な有能人であることが分かってきた。

最初に驚いたのは、彼が日本で初めて西洋画、油絵の婦人像を描いた当人であり、門下には司馬江漢、又、秋田画壇の創始者でもあり、彼の友人である杉田玄白の「解体新書」の詳細な人体図は、その秋田画壇の弟子により描かれたものというのを知った。長崎にも2回ほど遊学し、西洋の最新知識を吸収し、そうした知識を元に秩父や伊豆の鉱山開発、今でいうアスベスト、鉱石から繊維を取り出し、火に燃えない布、「火浣布」を作ったことであり、製品化には至らなかったが、画期的なことだった。

頭の回転がものすごく早く、一を聞いて十を知るような面もあり、新奇なものには直ぐに飛びついて、研究開発を手掛けて行ったが、如何せん、早過ぎる面もあったのか、殆どの事業は成功せずに途中で頓挫し、かなりの借金を抱えることになるのだが、そうした数々の失敗例から「山師の源内」と呼ばれたり、自身でも自嘲的に「平賀銭内」(ぜに無い)と称していたようである。そうした窮状から脱するために浄瑠璃本や歌舞伎台本、戯作本などを書いて、小遣い稼ぎ、生活費稼ぎ等をしていたが、それ等の作品はかなり評価の高いものであり、昨日の先生のお話では、「神霊矢切渡」などは現在でも浄瑠璃の演目として上演されているとのことである。他にも歌舞伎の脚本となっているものもあるようである。

そうして読み進んでいった処、源内が生きた同時代の中国の状況についての記述があり、その中でマテオ・リッチの名前が出てきて、少し驚いた。と言うのも3か月前の9月、マカオを旅行した際、マカオ博物館の入り口前にそのマテオの銅像が立っていたが、当方にとっては同じイエズス会の宣教師でもザビエルの方がより活躍し、カトリック信者に尊ばれているのかと思っていたが、その立派な銅像はザビエルではなく、このマテオだった。マテオは中国民衆の中に深く浸透し、中国名で「利瑪竇」(りマトウ)という名前も持っていて、ここ中国、マカオではザビエルよりも有名だったのだ。   

話は脇道にそれてしまったが、彼は晩年やや不遇で、エレキテルにしても「火浣布」にしてもうまく行かず、酒を飲んだ上での刃傷沙汰を起こし、投獄され、52歳の若さで非業の死を遂げた。 死後友人の杉田玄白は彼の死を悼み、墓碑銘を建立したが、その碑文は「非常の人」であった。(碑文、読み下し:ああ非常の人、非常の事を好み、行は是非常。何ぞ非常の死なる。)

先生が比較対象とした中国文人李魚と風来山人・平賀源内のひねた笑い、機知とウイット、等々、文芸の中のユーモアとは全くかけ離れた内容の解説文を読んだに過ぎなかったが、それでも源内の大きさ、活動、活躍の深さを知る手掛かりとはなた。次に先生にお会いするまでに、ワンステップランクを上げて、「放屁論」その他笑いの部分に入って行って、彼の神髄の一端なりとも掴んでおきたい。     


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