ちゃおチャオブログ

日々の連続

奄美の3日間(17)奄美の3人ー最後に一村を訪ね帰京。

展望タワーからは、海岸線以外にも内側の山波も見通せる。
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展望台からは真下に奄美パークのテーマ館も見える。
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見晴らしの良い展望タワーだった。
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付近に割く南国の花。フェニックスだ。
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テーマ館は田中一村記念美術館になっている。
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ユニークなデザインの建物だ。どこか南国調を思わせる。
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展望タワーのあるここ奄美パークは、以前この場所に奄美空港があり、今から20年程前に新空港が現在の場所に建設された後、旧空港跡地の利用方法として、このようなテーマパークが建設された。元空港敷地だけあって、広々としたテーマパークで、先刻空港手前のビーチで奄美の海を見て、更にここのタワーに登り、奄美の海岸線を眺めた。空港に近い場所で、こうした展望台から奄美の海岸線、遠くの全体を見通せるのは、観光客にとっては好都合であるのだが、ここも又人少なく、ここまで上がってくるのは自分一人だった。

このテーマパーク内には、奄美をこよなく愛し、奄美に移り住んで、孤独のうちに死んで行った画家田中一村を記念する美術館が併設されている。レンタカーを返却する2時までにはまだ少し時間もあり、駆け足で美術館を回ることにした。殆ど奄美でしか知られていない田中一村。このテーマパークの目玉にもなっているのだが、認知度はそれ程高くないのか、美術館内は又先刻の展望タワー同様に、全くの無人で、自分のフローリング床を歩く靴音だけが静かに響いていた。

中央画壇からは殆ど忘れ去られたような一村。入り口正面に彼のポートレート写真が掲げられているが、その芸術家らしい純粋な目に惹かれる。一時は芸大にも入校したが途中で退学し、芸大同期の多くは華々しく活躍している中にあって、昭和33年、50歳で奄美に移り住み、紬工場での染色工として働き、お金を蓄えては次の作品を描いていた。注文主におもねるようなことはせず、自分の追い求める絵画制作にこだわり、昭和52年、69歳で、先刻途中に立ち寄った集落のはずれの一軒家で、誰に看取られることもなく、孤独のうちに死んで行った。

こうした生き方、死に様がなせる業か、彼の絵にはどこか崇高で、純粋で、混じり気のない色彩の輝きがあるように思えた。特に奄美に移り住んでから描いた南国の草花、野鳥、風景などは、奄美に居を構えていなければできないような作品で、館内は撮影禁止となっていて、これ等の絵画を写真に撮れないのは残念だった。

自分の知る奄美出身者は皆無に近いが、奄美に関係する者として、昨日今日訪ねた島尾敏雄西郷南洲、そしてこの一村。3人とも強烈な個性の持ち主で、最後まで自己を貫き、死んで行った。3人とも奄美生まれでもなく育ちでもないが、彼等の性格がこの島の純粋さとマッチしたのだろう。何かを牽きつけるそうした磁力のようなものがあるのかも知れない。宮崎緑さんが美術館長を務めているが、彼女と一村との出会い、関係はどこにあるのだろうか・・。

テーマパークメイン館の2階には地元のレストランがあり、両陛下がここを訪れた際、地元料理「鶏飯」がとても美味しく、美智子皇后陛下がお替りをしたとのPR文もエレベーターの前に貼ってあったが、今はもう時間もなく、空港へ急がなくてはならない。又来る機会があるかどうかは分からないが、又の機会にしよう。

美術館内で写真が撮れない代わりに、外の売店で一村の極彩色の不喰芋と蘇鉄の絵ハガキを買い、その場で孫宛てにひらがなで書き、投函した。集配は日に1回。今日の集配は既に終わっているので、明日、土曜日の集配になる。自分はこれから飛行機に乗るので、孫の手に届くのは、何日か後になるだろう。この綺麗な色の南国風の絵ハガキを与論でくれれば、良いんだが・・。孫が小学校に上がる頃には、この島の魅力も伝えてやろう。

                                                 終


孤高の画家、田中一村。入り口のこの部分だけは撮影可能だった。
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最晩年の20年間、彼は奄美に生活し、貧しい中で自身の芸術を深めていった。
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死後、数十年経て、壁を乗り越えることができたか・・
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一村の絵ハガキを孫に送り、奄美空港へ。
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名物の鶏飯を食べる時間もなく、空港でコンビニ弁当を食べて、お昼にした。
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二泊三日の奄美大島の旅、良い旅だった。
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