ちゃおチャオブログ

日々の連続

2.11.(月・曇り)三田誠広「白村江」。韓国議長の酷い発言。

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前からだらだら読んでいた「白村江の戦い」、この3連休に読み終えようと考えていたが、昨日まで余り進まない。今日は又雪との予報で、丁度い。今日も又予報が狂って、雪は降らなかったが、寒いことには間違いない。今日こそは、と読み進める。明確な意思を持たないと、最近では本一つも読むことができない。それに遅読になってきた。
三田誠広はかなり若い作家かと思っていたが、自分よりは2歳若いだけだった。彼ももう70歳になったのだ。
白村江の戦い」、副題に「天智天皇の野望」と出ていて、内容は確かに天智になる以前の中大兄を軸に進められているが、興味を持ったのは、額田王で、彼女の数奇な運命に興味を惹かれる。和歌も上手い。半島、加羅国の王女で、亡命し日本に来て、同じ亡命加羅人の鎌子との繋がりが面白い。
645年、大化の改新から663年、白村江の戦いまでの日本、半島の歴史を改めて学習した。この頃も、それ以前もそれ以後も日韓の複雑な関係。1500年経つ現代にまでつながっているようだ。
和歌、短歌、万葉集にも改めて目を向けることになった。どこまで正確な歴史かどうかは別にして、面白い読み物だった。この中の短歌の幾つかは覚えておこう。
「茜さす紫野行き標野行き 野守や見ずや君が袖ふる」
「紫草のにおえる妹をに憎くあらば 人妻ゆえにわれ恋ひめやも」
この和歌が白村江に敗れた後、都を滋賀の大津に移した後のこととは、今知った。その後、天智は山科で不比等に殺害され、大海人は吉野へ逃れ、翌年兵を挙げ、大津宮は大友の親王も殺害される。
中に一度郭むそうの名前が出てきたが、彼は百済(シビ城)の駐在武官で、低い地位の武将だったとはこの中で知った。
徳費すべきは、鎌子の歌、
「われはもや安見児得たり皆人の得難にすといふ安見児得たり」。
この時既に額田は身ごもっていて、生まれた子は不比等だった。藤原4家の祖となる人になる。歴史は面白い。

こうして日本は1400年も昔から半島の百済を助ける為に、白村江で唐の水軍と戦い、2万人を超える将兵を失ったのだが、百済の亡命王子、余豊璋は敗戦後日本には戻らず、北の高句麗に逃げて、その後どうなったかは不明になっている。
もっと前に遡れば、4世紀、既に加羅韓国、弁韓辰韓等を助け、半島南部の小国を援助してきたのだが、昨日の韓国国会議長の発言は、許しがたい。陛下まで持ち出し、謝罪を求めている。戦前だったら不敬罪。即逮捕、打ち首だ。総理はすかさず大抗議したが、外相の腰が引けている。公の国会議員がこした発言をするのも許しがたいが、議員のトップである議長が陛下に謝れ、とはよくぞ言ってくれた。外相は直ぐ韓国大使を呼びつけ、厳重抗議しなければならないし、日本大使も召喚するべきだ。日本がこのようなチンピラ議員に貶められたり、陛下が汚されることはあってはならない。議員が竹島へ上陸することすら問題ではあるが、今回の発言は一線を越えている。厳重な謝罪を要求すべきだ

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