ちゃおチャオブログ

日々の連続

四国霊場・高知篇(24)清滝寺参拝後岩本寺へ。

山の中で、霧雨のような小雨が降ったり、やんだりしていた。正面が大師堂。

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ここの御本尊は伝行基作の薬師如来。重文だ。

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本堂の前に立つ巨大な薬師像。

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薬師像にお礼をし、下山する。

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雨は降ったりやんだり、それ程強い雨ではないが、蝋燭や線香に着火する時に濡らさないようにして、手間がかかる。面倒だが、線香蝋燭を省くという訳にはいかない。しかもそれは本堂と大師堂との2か所づつだから合計4回の着火作業になる。いつからこの方式が定着したのか知らないが、江戸時代には今のような本堂、大師堂が二つ並んで建っている形になったのだろう。江戸時代になって人々の生活にも余裕が出てきて、江戸に近い所では大山詣、ちょっと離れて伊勢参り、それから更に遠くの金毘羅参りと、お参りに名を借りての物見遊山、伊勢のおかげ横丁とか、琴平歌舞伎など、むしろそちらを楽しみにする講などもできてきた。

 

ここ四国お遍路はそうした大山講、伊勢講、富士講のような講元を中心とした団体は少なかったと思われ、今まで回った各お寺では講札が貼ってあるのは見なかった。勿論交通不便な江戸時代、旅行すること自体が今と違って大変な時代だったから、何人かのグループで、地理に詳しい先達の元、団体お遍路もあったかも知れないが、四国お遍路は基本的には個人の信仰に基づく巡礼、祈りの遍路だったのだ。伝説によれば、伊予の豪族衛門三郎が弘法大師生存中の頃、既に四国お遍路を始め、3回目の巡礼に際し、その途中の焼山寺で漸く大師と相まみえることが出来た。その直後彼は息を引き取ったのだが、焼山寺の坂の途中のお遍路道には、二人の銅像が立っていた。今から1200年前の話であり、世界で最も古い巡礼の始まりであり、スペイン巡礼、カミーノコンポステラの約800キロと比べても、こちらはその1.5倍も長い距離を巡礼しなければならないのだ。

 

数年前、スペイン巡礼の一部を歩いたが、そちらは緩い起伏の丘陵地で、殆どは平坦な巡礼道が続いているのだが、こちら四国お遍路は700mを越えるような随分ハードな山坂もあって、遍路転がし、お遍路泣かせの大変な巡礼の道だ。この清滝寺も、バスで急坂を登ってきたから、大変さは実感できないが、昔のお遍路さんはこの400mの山坂を登り下りするのは、殆ど1日がかりだったかも知れない。霧雨の中に煙るようにして立っている高さ15m程もある大きな薬師如来像を改めて眺め、バスに乗り込み、今度は一方通行の反対側の坂を下り、下り切った先の国道に面する大きなスーパーに立ち寄り、トイレ休憩となった。さて、これから今日最後の霊場、隣町の四万十にある岩本寺に向かった。

 

下山は反対側の一方通行を下り降りるが、昔は八丁坂の石段だったという。

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かなり深い山で、昔のお遍路さんは大変だっただろう。

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ここは高岡の和紙でも有名で、先の薬師像は地元の和紙業者が建立した。

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麓の大きなスーパーでトイレ休憩をし、隣町四万十にある岩本寺にやってきた。その寺の前に戦国時代、この辺りを収めていた地元の豪族の城跡、茂串城跡があった。

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