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閉門15分前にぎりぎりセーフで到着した。
山間部の、余り対向車もない県道を上って行く。最後の霊場は香川と徳島を隔てる讃岐山脈の中の一座、標高782mの矢筈山中腹にあり、人里離れた山の中にある。山中の道路に1か所10数件の集落があるだけで、他には人家らしきものはない。歩き遍路だったら、淋しい限りだろう。そう思って車を走らせていると、前方に一人、白装束で遍路笠を被ったお遍路が坂道を登っている。今の時間、車なら閉門に間に合うが、歩きだと無理だろう。
車を止めて、「乗って行きませんか?」と言葉を掛けたら、陽に焼けて、且つ柔和な顔立ちの初老の男性が、「多きに。でも大丈夫です。今日はお寺の前に泊まって、明日行きますから。どうもありがとう。」と、2回もありがとうと頭を下げた。そうか、彼に取っては予定の行動で、他人に甘えて車になど乗ったら、折角ここまで通して来た「歩き」が水の泡になる。自分としても、どうも失礼な言葉掛けをしてしまった。麓の町長尾寺からは約15キロ、第一番霊山寺からは約1400キロ、秋の陽の早い夕方、日の暮れかかる山道を、一歩一歩登っている。最後まで歩きを貫徹し、間も無く結願だとの思いを噛みしめて。ツアーやレンタカーで観光気分で回っている自分などよりは、数百倍、数千倍も強い思いで、最後の霊場に向かっているに違いない。
四国霊場第八十八番大窪寺には閉門の15分前に滑り込みセーフで到着した。何かほっとした。間に合って良かった。今日の内に満願、いや八十八ケ所霊場巡りでは結願というが、それが今日のこの時間に達成できて、肩の荷が下りたというか、密かな満足感というか、曲がりなりにもやり遂げたといった、複雑な達成感。一つの目標を立て、その目標が実現した喜び。大学受験の志望校に合格した喜びとも違う。八十八ケ所を巡礼して、何かが得られたという即物的なものでもない。浅い人間が精神を言うのもおこがましいが、人の書いた書物など読むと、じわっと来ると。そう「良かった」と。
閉門間近の山中の寺は人影もなく、鐘の音もどことなく淋し気に、山中に吸い込まれて行った。大師堂、本堂とお参りし、本来は金剛杖を奉納すべきところ、殆ど時間もなく納経帳に最後の御朱印をもらい、漸く3分前、寺を後にした。寺の前には宿坊らしき民家が2軒ほどあったが、先刻の歩き遍路の姿は見えなかった。まだ途中のどこかを歩いているのかも知れない。どんな経歴の持ち主で、どんな切っ掛けで歩きを始めたか・・。自分には計り知れない精神力があるに違いない。暗くなりかけた山道を、事故を起こさないように気を付けて運転し、今晩の宿泊、丸亀駅前のアパホテルに向けて坂を下って行った。