ちゃおチャオブログ

日々の連続

紀の国訪問記(18)高野山壇上伽藍へ。

高野山大門を入って直ぐの民家の玄関先に、英語とラテン語で表記された手土産品が置かれていた。

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 この家は、昔は参詣道に面した土産店だったのだろうか・・

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 少し歩いた先にコンビニがあり、一休みした。

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更に4-5分歩くと、壇上伽藍の山門に出る。

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表参道の旧街道筋に出て直ぐの場所に民家の軒先にカゴが置いてあって、箸と小さなオーナメントが置いてある。英語で「Take it Free」と書いてある。日本語で「どうぞご自由にお持ち帰り下さい」、とは書いてないが、意味は同じだ。それにどこの観光地でもある中国語、韓国語の表記がなく、その代わりにラテン語系の言葉で書かれている。スペイン語なのかブラジル語なのか自分には区別が付かないが、駅でも電車でもトイレのどこでも見慣れている英中韓の3ケ国語表示ではなく、英語とラテン語のみが新鮮だ。それにこの手土産品はどれも新品で、土産店では200円、300円の値札がついていてもおかしくない。この家の御主人(か奥さん)の、教養なのか思いやりなのか、心の深さ気持ちの豊かさが感じられた。

 

そうそうこの町は確かスペイン巡礼の町、サンチャゴと姉妹都市を結んでいたんではなかったのか。先刻奥の院参道の入り口に、何かその様な看板が立っていた。熊野三山へは大辺路、中辺路、小辺路の3ルートがあるが、ここ高野山小辺路ルートのスタート点だ、そう平安時代以来法皇を始めとする多くの人々が京大坂、江戸からやって来て、奥の院で納経帳の最初の頁に御朱印を頂き、それから長い山越えの巡礼が始まるのだ。納経帳の最後ではなく、最初の頁に奥の院があることが、今更ながら分かったような気もした。

 

8月初旬の日差しが暑い。何か江戸時代を彷彿させるような旧参詣道、旧街道筋を歩いていると、前方にコンビニが見えてきた。今や7-11はどこの町に行ってもある。どこの町でもコンビニは今や町のランドマークだ。現代の接待所。店の前に広い駐車場とテーブル席が2-3ある。そうだここで一休みしよう。ロング缶でも飲みながら、この町の事、弘法大師の事、熊野三山のことでも考えよう。

 

7-11のテラス席で一休みし、更に4-5分も歩くと、壇上伽藍の山門前に出る。山門の形は今見てきた高野山大門とそっくりで、そのサイズを一回り、二回り小さくしたような感じだ。左右の阿吽像も同じで、同じ頃、この山の高僧が同じ設計思想で建立したのではないかと思われた。朱色が何か神社っぽい感じもするが、神仏習合の時代にあっては、仏教も神道も一縷魂体、今日ほどの垣根は高くは無かったのだろう。明治の初めまでは本地垂迹で、仏教が神道の上に立っていたが、明治の廃仏毀釈で、その一は逆転した。今は仲違いではないが「隣は何をする人ぞ」のお互いが無関心状態になっている。さてそんなことより、この壇上伽藍に参拝に行こう。

 

高野山大門にそっくりの仁王門だ。

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山門を入った先に壇上伽藍の金堂がある。

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その横にはこの伽藍のシンボル根本大塔が見える。

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この大塔は戦前、昭和時代の時代のもので、国宝にはなっていない。

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