この壇上伽藍で最も目を惹く根本大塔。
真言密教の根本思想がこの堂内に凝縮されている。
偶々表扉が開いていて、道内のご本尊を拝むことができた。
神々しくも大日如来様だ。この大塔は一名、毘盧遮那法界体性塔とも呼ばれている。
そうそう、壇上伽藍と呼ばれる場所は高野山にしかないのだから、壇上伽藍の前に敢えて高野山とつぎ足す必要は無いのだ。壇上伽藍と言ったら、高野山のここしかない。そもそもお寺の人が、自分の寺を○○伽藍と呼ぶ例は自分はし知らない。後世の歴史家、研究者が、法隆寺の寺院の建物配置等を見て、法隆寺様式、或いは法隆寺伽藍と言ったり、同じように東大寺様式、東大寺伽藍、と呼んだのかも知れないが、寺自らが言っていた訳ではない。法隆寺で言えば、個々の建物、金堂とか夢殿、五重塔、東院、西院、等々、建物固有の名前で呼ばれることが多い。他の東大寺、唐招提寺にしても同様だ。
「伽藍」とは聞きなれない言葉である。殆ど仏教用語、お寺の全体像を表すときに使用されている。英語のComponentとCompositionの違いは良くは分からないが、そうしたパーツが合わさって全体を構成する、そうした意味合いで、「伽藍」が使われるのだろう。ひどく抹香的な匂いのする日本語である。この高野山のこの場所がいつの頃から「壇上伽藍」と呼ばれるようになったのかは、自分は知らない。弘法大師がここに幾つかの堂宇、愛染堂、不動堂、三昧堂等を造った時点からそう呼ばれるようになったのか、或いは後世の知恵者が大師にあやかって、この伽藍名を付けたのかは知らないが、京都の平地にある東寺伽藍と、この高野山山上の壇上伽藍とは、雄雌甲乙、糟糠の同衾のようにピッタリ合っている。これも弘法大師の妙というものか・・。
さて、ここにあって、一番に目を惹くものは、根本大塔。これは真言密教の最も中心的な教義、両界曼荼羅、胎蔵界と金剛界の思想を可視化するものとして、大師は瞑想に入る前にこの場所に建立したのだが、約1200年の間には幾たびかの火災にあって、江戸後期より約100年間空地のままだったのが、戦前の昭和の時代にこの建物、多宝塔が建立された。建立されて既に100年近くは経っているが、今もなお、光芒を放っている。偶々何かの記録撮影の為がクルーが堂内にはいって、作業をしている。表の扉が開け放たれて、ご本尊の大日如来が、間近に見える。すかさず写真を撮った。この仏像が国宝かどうかは分からないが、この敷地、壇上伽藍には上記に挙げた建物初め、幾つもの国宝、重文が綺羅星のごとくある。・・時間がないのが惜しい。矢張り高野山は1日かけて逍遙すべき場所なのだ。
伽藍内には多くの国宝、重文が残されている。
大会堂。本当にここだけでも全部見て回るには1日以上はかかるだろう。
これは何だろう・・。三昧堂??
不動堂。国宝か?