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日々の連続

紀の国訪問記(17)高野山大門から壇上伽藍に向かう。

高野山大門は大きくて、立派な造りだ。

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左右の仁王像は奈良東大寺に次ぐ大きな像とのことである。

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阿形像。確かに迫力は満点だ。

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さて、昔の巡礼者のように、この山門を潜って高野の町に入ろう。

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コロナは世界の観光業、運輸、ホテル、土産店を破壊した。寺社の宗教施設も観光分野の一つだから、大きなダメージを受けているだろう。この高野山は世界でも稀な山上全体が宗教都市になっていて、中国で言えば五台山や補陀山のようなものだ。コロナさえ無ければ、世界中から多くの人々が観光にやって来ていると思うのだが、今は外国人の姿など全く見られない。外人どころか日本人の観光客も殆ど見られない。鉄道、ケーブルの無かった頃、この大門周辺は沢山の参詣者で賑わっていただろう。高野山には7つの参詣道があると言われていた。中でここは表参道で、一番のメインストリートだった。アンドレジッドの狭き門ではなく、広き門より高野山へいらっしゃいだ。

 

実際この大門は大きい。東大寺南大門、京都南禅寺大徳寺楼門、その他各地の大きな山門、仁王門を見てきたが、この大門はそれ等に劣らない。この大門から先、高野山の神域で、戦国以前の最盛期には1000を越える寺や草堂、道場があった。それ等は全て金剛峯寺の傘下にあり、この大門もそうだった。山全体が金剛峯寺だったのだ。数千人を越える高野聖はこの門を出て、全国に散り、宗教活動をしていた。だが、信長によって1000人以上が捉えられ、処刑された。信長は比叡山に続き、この山も全山焼き討ちを予定していたが、その直前に本能寺であえ無く生涯を閉じた。本能寺の急変で狂気の英雄は死に、この山は助かった。

 

東大寺南大門の仁王像に次ぐ大きさの左右の阿吽像に挨拶し、山門を潜って町に入って行くと、町の方から二人の子供を連れた父親がやってきた。大門の所が少し小高く盛り土をしてあり、大した坂ではないが少し傾斜している参道を、小さな子供たちは父親に甘えるように、大変そうに坂を登ってくる。微笑ましい親子の触れ合いだ。観光客には見えないし、かと言って付近の住民が散歩にやって来たとも思えない。どこから来て、どこへ行くのかも分からないが、斜道の下から上がって来たこの親子が大門を潜って、門の外へ出て行くまで見送った。どこかの寺の檀家で、お盆前のお墓参りに来ているのかも知れない。母親の姿は見えなかったが、良い家族であるに違いない。

 

戦前の参詣道をそのまま現代風に衣替えしたような通りが続いている。嘗ての参詣道は、今は建物も今様の近代建築になっているが、嘗てはこの参詣道に面して、多種多様な店が並んでいたのが想像できる。丁度善光寺の前に見る門前町のような通りの面影を残しているが、善行寺は今もなお現役で賑わっているが、こちらの高野山は参道の面影しか残っていない。通りの中程に今様のコンビニがあって、暑さもあり、喉も乾き、店舗の外にテーブル席も2-3あり、少し休んでいくことにした。

 

大門のある所は盛り土してあって、多少上り坂になっている。

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町の方から親子3人連れがやってきて、大門に向かう。

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あの3人はどこからやってきて、門の外、どこまで行くのだろうか・・。

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昔の参詣道の面影を残す町並み。

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