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日々の連続

紀の国訪問記(16)金剛峯寺から大門へ。

金剛峯寺は高校生の集団旅行で混雑が予想され、外観だけ見て、大門へ向かう。

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金剛峯寺、嘗てこの場所で2代関白豊臣秀次が自害した。

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大門へ行く途中に大師協会というキリスト教的な名前の真言宗普及活動の本部があった。

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近くの道路沿いに春紅葉が紅葉していた。

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金剛峯寺の境内に入ると、件の高校生が何組にも分かれてこの寺にやってきている。早い組は既に本堂の中に入って、参拝している。次の組も又玄関先の靴箱の辺りで順番待ちしている。このまま入って行ったら、この高校生グループに巻き込まれそうだ。寺への参拝は外からにして、先に大門へ向かい、帰りに時間があったらもう一度寄ってみよう。本堂には襖絵その他重文、国宝の類も幾つかあるだろうが、重要品は多分霊宝館の方へ移されているに違いない。それに今の自分には昔と違って、それ等を鑑賞する目も落ちていて、鑑賞能力は今の高校性以下だろう。

 

高野山は縦長の町で、中央に一本県道が通っていて、一番端の奥の院から真っすぐこの県道を反対端の大門まで歩いても1キロ程度だ。そのほぼ中間点辺りに信号付きの交差点があって、その直ぐ近くに金剛峯寺があって、その前の道を又真っすぐ5-600m程行った先に大門がある。この道路は江戸時代以来続いている高野山参詣道の名残で、それが戦後昇格して県道になったものだ。足がかなり弱っていて、宿坊からこの金剛峯寺までやって来るのもかなり難儀だったが、市内循環バスも間遠で次のバスを待つ位ならと歩き始めた。こんな時、レンタカーで無いのが悔やまれる。

 

少し行った先が十手の形をしていて、旧街道はこの枝手の方が本道で、くねっと湾曲して歩いて行くが、十手の真っすぐ行った先が根本大堂に出るのだが、それも又帰りに寄ることとして、先ずは大門に向かった。十手の取っ手に当たる部分に金剛峯寺があり、枝分かれしている部分には大師協会という小奇麗な前庭を持ったお寺風の建物があるが、教会という名前からすると何かキリスト教関連を想像させられるが、これは弘法大師の全国布教を目的として、大正末に造られたものであり、教会という名前は当時の大正モダニズムを反映しているのかも知れない。この大師協会の向かいには霊宝館が建っている。これも又大正時代建築の博物館で、木造博物館としては日本で一番古い建物と言われている。

 

ここから先は、住宅地になっていて、寺も宿坊も全く無くなる。大門まではほぼ平坦な一本道だ。バス停が100-200m置き位にあって、時刻表を見ると間も無くやってくる。結局最後の数百m、歩くのは止めて、バスに乗って大門まで行った。朱塗りの大門は大きなものだ。大門の大きさ比べは良くは知らないが、この山門に安置されている仁王像は奈良の南大門にある仁王像の次に大きなものとのこと。ここが江戸時代以来、麓の葛城、九度山から登って来た参詣者の表参道の入り口に当たり、漸く高野山の神域に入場することが出来るのだ。長い坂道、漸くほっとしたに違いない。

 

最後は結局バスに乗って、大門にやってきた。

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確かに大きな大門だ。大きさから言えば、奈良の南大門よりは大きそうだ。

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しかしここにも観光客は全くいない。

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山の下の九度山から登って来た人はこの門を見て、ほっとしたことだろう。

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