ちょっと寂れた感じの駅前商店街。
駅前からバスに乗って30分、那智大社前の終点から、大社に向かう石段を登る。
参道の両側は殆どの店がシャッターを下ろしていた。合計467段はきつい登りだった。
今日の泊まりは隣町の勝浦だ。午前中太地の港を観光し、どこか食堂でも開いていればクジラの昼食でも食べる予定でいたが、昨日「ニーチェ」の主人に聞いたら、そのような店は道の駅の1軒しかないようで、そのクジラ亭もこのコロナ禍で休業中のようで、そのまま太地駅まで戻り、早々と勝浦に行くことにした。まだ子供たちが小さい頃、家族旅行で千葉の千倉で一泊し、そこでクジラ三昧の夕食を摂ったことを思い出したが、絶滅危惧種に登録されているクジラ料理、今となってはもう思い出の中でしか味わえないか・・。
高台にある太地駅ホームで、それ程待つことも無く新宮行の電車がやって来た。太地町と那智勝浦町は地図の上では隣同士だが、電車で行くと途中に1つの無人駅がある。午前の電車は昨日串本から太地へ乗って来た時と同様、ガラガラの車両で、その無人駅には乗降客もいない。那智勝浦駅も太地と同様に高台にあるが、こちらは太地よりも人口も多く、利用客も多いのか駅員も配置され、ホーム間の移動にはエレベーターも設置されている。足の弱い自分に取っては有難い話だ。有人駅だけあって乗り降りする人も多く、多少は華やかさ、元気さも感じられた。
昭和の町村合併の頃、ここ勝浦は隣の那智大社門前町の那智町と合併し、那智勝浦町となった。それで人口も倍増したのだが、それでもまだ市には昇格していない。それこそ昨日回った串本町、今日の太地町と、3つの町が大合併すれば、南紀市と言ったような市にはなるかも知れないが、それは当分無理だろう。3町はそれぞれ独自の歴史と誇りを持っている。ここは合併して那智勝浦町となったが、勝浦と言う地名は当地以外にも千葉の外房にもあり、又2年前四国巡礼で回った徳島にも同名の町がある。そこは徳島の山中にあり、四国霊場でも2番か3番目に高い山の上にある鶴林寺があった。盆地の中の町に「浦」という名前が付いているのが不思議に思ったが、そこには勝浦川という清流が流れていて、その流域のどこかに「浦」のような淀みでもあり、こうした町名が生まれたのかも知れない。それぞれが同じ町名の誼で、姉妹都市を結んでいるようだ。
この那智勝浦駅にはエレベーターの他にもエスカレーターまであり、一段高くなっている駅舎からはそのエレベーターに乗って下の駅前広場に降りると、目の前に南海バスの営業所があり、窓口で聞いてみると那智大社行のバスは1時間に1本位の割合で出ているとのこと。大社までは凡そ30分程度とのこと。次のバスは10時20分で、リュックをロッカーに入れて、このバスで大社まで行くことにした。大社までのバス便がこんなに便利とは思ってもいなかたが、ただ今の乗車は自分一人としても、コロナが収まれば,各方面から沢山の参詣客が訪れて来るのだろう。
バスは町内の幾つかのバス停を通過し、隣駅の那智駅に暫く止まり、そこから那智大社に向かってなだらかな登り坂を進んで行く。これから那智山に入り込もうとする直前の大門坂バス停で何人かの乗客が乗り込んでくる。この大門坂は昔の熊野古道の参詣道で、この手前には大きな駐車場と休憩所などもある。参詣客はこの駐車場に車を停めて、ここから古道を歩いて行くか、又は足の弱い人はバスに乗って大社に向かうのだ。ここから凡そ10分、バスは終点の大社前駐車場に着いた。他の乗客は一つ手前の那智大滝の前で下車し、ここまで乗って来たのは自分だけだ。
さて、バス終点から大社へ登る参道の石段が始まる。大社までは467段だ。参道の両側の土産物店は殆どがシャッターを閉めている。石段が終わる直前に店が2軒だけ開いていて、仏具、石材等の土産品を売っていた。自分のようにこの参道を登ってくる人は日に何人いるか・・。殆ど両手には満たないだろう。かなりきつい石段で、何回か立ち休みしながら登ったが、下山者には誰も出会わない。もっと楽な参詣道が別の場所にあるのかも知れない。去年登った金比羅山の長い石段を思い出しながら、長い時間を掛けて登り切り、漸く朱塗りの鳥居の前に出た。直ぐその上は本宮だ。
漸く先が見えて来た。もう直ぐだ、頑張ろう。
大社の直下には、大社や土産店関係の住宅が数軒並んでいた。
高台に立つと眼下の人家が見渡せた。
漸く大社の鳥居まで登ることができた。最後のひと踏ん張り、頑張ろう。