バスターミナルの道路の向かいには熊野本宮の参道が見える。
これから158段の石段を登り、社殿に向かう。少しは参詣者の姿も見えてほっとする。
参道脇には、年間行事、例大祭等の写真パネルが掛けられている。
そうこの本宮は一遍上人との縁が深いのだ。
新宮からのバスの終点は、広いターミナルになっていて、正面には市か町の観光協会、或いは熊野大社自らが造ったのか、立派な観光案内の建物があり、その向かいには熊野三山の記念館が建っている。コロナ禍で、バスも終点のここまで乗って来たのは自分一人で、館内には係の職員の姿は見えるが、観光客、参詣客の姿は見えない。それでもバス停には、ここから各方面に枝分かれしているバス路線の、どこ行のバスを待っているのか不明だが、青年が一人バスを待っていた。
このバスターミナルの県道の向かい側に熊野本宮への参詣道が見える。その参詣道への途中、バスを降りた直ぐの辺りに、スペイン巡礼の旅の目印マーク、シェル石油の貝、いやShellだから正確に言うと二枚貝の貝殻、牡蠣のマークだが、その標識があったのに気が付いた。今まで那智大社、熊野速玉大社を巡拝してきたが、このマークを見たのは、ここが初めてだ。スペインへ行くと、バスクの麓にあるパンプローナから、巡礼の最終地、サンチャゴまでの約800キロの巡礼道にはこの貝殻マークが至る所にあり、それは石畳の地面の上にも表示されていた。巡礼者は地図を持たなくても、このシェルマークを頼りに、迷子になることもなく、次の教会に行きつくことが出来るのだ。
スペイン巡礼道よりも500年、600年も前に始まったここ熊野古道の蟻の道は、大辺路、中辺路、小辺路等々、幾つかの参詣道があるが、それぞれに九十九王子社とか里程標が整備されていて、道に迷うことも無く、又、急座の雨露を凌ぐ社もあった。日本もスペインも巡礼者には実に親切だった。いつ頃生まれた言葉なのか、「伊勢に7度、熊野に3度」と言われるように、人々の崇拝を受け、人々は何度となく参拝に訪れた。史実によれば、延喜7年(907年)宇多法皇から始まった熊野詣は、後白河法皇の34度を最多とし、弘安4年(1281年)亀山上皇をもって、最後となった。
さて、目の前に社殿に続く158段の石段がある。この社殿は元々は熊野川の中州、大斎原にあったものだが、明治中頃の川の氾濫によって押し流され、今のこの場所に移された。158段、凡そ50m程の高台に移された本宮は、今度は大洪水が襲ってきても、流される心配はないだろう。この石段は1000年前に法皇、上皇が登ったものではなく、一遍上人が修行した時の石段ではない。しかし両側の鬱蒼とした森は神秘的であり、1000年以上前から続く精神性を今に引き継いでいるように思えた。今登るのは自分一人ではなく、何人かの参詣者が往来していて、少しは心の緊迫を解いてくれた。
「おかえりなさい」、心の故郷熊野へ。
熊野は出発の地でもある。
和泉式部もこの地にやってきたのだ。
「前」へ。このコロナ禍だからこそ「前へ」。