ちゃおチャオブログ

日々の連続

函館の三日間(12)五稜郭と函館戦争。二人の英雄、榎本武揚と黒田清隆。

展望タワーを降りて、五稜郭城内を散策することにした。

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入り口近くには「函館戦争供養塔」の石碑が建っていた。

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函館周辺の案内図。ここは半島の根元の部分に当たる。

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ああ、黒田了介、後の総理大臣黒田清隆の大きな看板が立っている。

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五稜郭タワー展望台から降りて、1階にある土産ショップで孫へのキャラクター商品を2-3買い、ここでは何かサンリオピューロランドとコラボをしているのか、小さな子供の好きそうなメルヘンチックでカラフルなシールがコラボ商品に張り付けられていて、孫もきっと喜ぶに違いない。タワーに隣接して五稜郭があり、少し中に入ってみることにした。近代日本に脱皮する徳川最後の戦い。と言っても、15代将軍徳川慶喜は既に大政奉還もし、江戸城も明け渡しているので、正確に言えば、幕府側の残党に過ぎなかったのだが・・。

 

明治2年、ご一新の最後の戦いがここ五稜郭で行われた。佐幕と倒幕の戦いは各地で行われ、それぞれ戦闘の名前が付けられているが、ここ五稜郭を中心とする攻防戦は、世に函館戦争と呼ばれた。ただその戦争は僅かな期間数か月で終了し、函館市街地を戦乱に巻き込むこともなく、この五稜郭無血開城で新政府軍の手に落ちた。新政府軍の指揮官は黒田了介、後の第2代内閣総理大臣黒田清隆で、一方の五稜郭守備軍の総大将は榎本武揚だった。黒田は初代総理大臣伊藤博文の次の総理で、伊藤の陰に隠れて薄い印象だが、彼も又鹿児島城下、甲突川沿いの下級武士で、西郷や大久保と同じ町内だった。その周辺は今は小さな歴史記念公園になっている。

 

一方の榎本は広く知られた旗本で、幕末にはオランダに留学し、かの地で造船された新鋭艦を受け取って来航した海軍有数のエリートだった。前日の函館山の麓の市街戦で、先鋒隊長、新選組副長の土方歳三は討ち死にし、幕軍残る兵はこの五稜郭に撤退し、榎本の下徹底抗戦の構えは見せていたが、彼我の力の差は歴然で、戦う前から結果は分かっていた。黒田の再三に亙る降伏文書を頑なに拒んでいたが、遂には自身が自刃することにより部下の命との引き換えに臨んだが、部下に差し止められ、自決は果たせなかった。

 

その直後の談判により五稜郭無血開城となり、榎本は東京に護送され獄に繋がれることとなったが、ここ五稜郭は新政府の北海道開拓拠点となって、札幌に移転するまでの最初の間ここに道庁が置かれた。更に黒田は後年北海道開拓長官となり、この地に赴任することになったが、その際、牢獄から釈放された榎本を部下として使うことになった。今から20年ほど前、利尻島にある100名山、利尻富士に登頂した折、山頂の少し手前に「長官山」という見晴らしの良い場所があったが、そこは黒田が北海道長官だった時に、この場所から島内、道内を見渡した、との案内解説板が立っていた。この時、榎本が一緒に付いてきたかどうかは、解説文にはなかったが、二人の友情は終生変わらず、黒田の死亡に際しては、榎本が葬儀委員長を務めることになった。今は綺麗に整備されて公園になっている五稜郭、近代日本を築いた二人の英雄の出会いの場であり、生涯を通じ肝胆相照らす仲を取り持った、数奇な場所だった。

 

さて、これから城内散歩だ。

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幕末、北の守りとして建造されたが、石垣はそれ程高くない。既に大砲等を使用する近代戦を想定しているのだ。

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5つの菱形のお城。西洋式だ。

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幕末、国内で最後に築城されたお城であり、日本100名城にも登録されている。

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