五稜郭には城門は無く、幕末、明治期の役所の面影を残している。
以前、郭内を歩いた時よりは、随分と整備が進んでいる。
庭内を歩くには1時間はかかり、時間もなく、入り口付近を散歩し、引き返す。
お城で言う大手門に架かる橋の上で写真を1枚。
初代総理大臣伊藤博文の名前が余りにも大きく、その陰に隠れて薄れた感のある黒田清隆伯。薩摩鹿児島の甲突川の下級出身であるが、伊藤侯に継ぐ2代目の総理として、幾つもの功績を上げているが、伊藤の陰で余り取り上げられていない。その一つが日露交換条約で、彼が北海道開拓使長官の頃の明治8年、日露間に「樺太・千島交換条約(サハリン・クリル交換条約)」が榎本武揚を全権としてサンクトペテルブルクで締結され、この時に日露間の国境が画定された。即ち日本は樺太に於ける権利を全て放棄し、代わりに千島列島全ての権利をロシアから譲り受けるというものだった。それ以前の国境は、安政元年の日露和親条約で、北方4島の択捉島とその北の得撫(ウルップ)島の間に引かれていた。
ドロボー国家ロシア。過去あちこちで領土の掠め取りを行ってきたが、記憶に新しいのは8年前のクリミヤ半島武力侵攻であり、今また隣国ウクライナに触手を動かしている。北方4島帰属問題は、元々は日本の固有の領土である4島に、日本がポツダム宣言を受託した以降に武力侵入し、不法に占拠し領有化しているものであり、明らかに野蛮国家の振る舞いである。言葉の通じない野蛮国家に交渉で返還を求めるのは至難の技ではあるが、世界の良識を味方にし、言い続けなければならない。
幕末から明治、激動の時代を見てきた五稜郭の入り口付近を少しばかり散歩し、次に又この近くにあって、函館の100年の変化を見続けてきたトラピスト修道院、トラピスチヌに向かうことにした。五稜郭からはバス路線があって、この修道院が終点となっている。僅かな距離ではあるが、バスは段々高見の丘に向かって上って行く。この修道院は高台にあって、ここからは函館市内が一望できる。以前、車でこの前まで来たが時間がなく、車内から正門を眺めただけで終わっていた。函館を代表する観光スポットの一つだ。幕末に開港された5つの港の一つで、昔から外国人の居住も多く、キリスト教会、修道院が建設されたのは自然の成り行きだった。午後の遅い時間、帰りのバスの時間を気にしながら、園内に足を踏み入れた。
五稜郭を後にして、次にトラピスチヌ修道院に向かうことにした。
バスで10分程、丘の上にあるトラピスチヌ修道院にやってきた。
「厳律シトー会天使の聖母トラピスチヌ修道院」がこの修道院の正式名称だ。
門を入った正面にマリア像が立っている。