ちゃおチャオブログ

日々の連続

壱岐・対馬2島巡り(17)原の辻遺跡を見終え、賽神社へ。

親切なボランティアガイドが、遺跡の詳しい説明をしてくれる。

 

写真パネルまで見せて、案内する。これは船着き場の遺跡だ。

 

遺跡の俯瞰写真。

 

広い台地になっている。この先に水路が外の海まで繋がっている。

 

原の辻遺跡での初老のボランティア案内人は心底この島を愛し、この島にやってきた観光客を心から歓迎する。元の職業を聞きそびれたが、以前は学校の先生か、教育関係にいたのかも知れない、歴史にも詳しい。この丘状の台地の中でも、一番高くなっている場所に宗教施設があったとは、そこに多数の祭器の破片が出土したからとのことであった。仏教伝来前のことだから、何らかの自然神を祀る施設と思われるが、それがこの様な立派な藁ぶきの建物に復元されている理由を聞くと、どちらかの偉い学者先生の意見に従って再現したとの説明であった。この遺跡が復元される以前の状態がどんなだったかは不明だが、確かにこの台地の上に立つと、周囲を大きな盆地に囲まれた、ほぼ真ん中辺りにあり、集落の中心だったとは予想される。

かなり広い盆地で、人口数千人程度の口数は養える程の農地、田んぼの広さであった。丁度この頃稲作農法が大陸から移入され、それは人と共に移って来たと思われるが、この島でも徐々に人口も増えてきて、3世紀、魏国からの使者がここ一支国にやって来た頃には、使者を迎える建物も出来ていただろうし、倭国の中の一国としての体裁も備えていたのかも知れない。この台地の少し先、一支国博物館が建っているが、それは現在コロナで閉館中のようだが、その直ぐ近くで、初期の桟橋跡が発掘されたとのボランティアガイドからの説明もあった。版木のような物を重ねた船着き場で、それは盆地の外の外港から水路を繋げてこの王都の港まで物資の移送を行っていた、と思われた。倭人伝のそんな昔の時代から、この島では、規模の大小は不明だが、流通が行われていた。小さな島で争いも無ければ、人々は平和な社会を続けられていたのかも知れない。青森郊外の高台にある三内丸山が縄文から弥生に掛けて5000年間も続いていた背景も分かるような気にもなった。

ガイドの案内で1時間ほど遺跡の丘を歩き、次は郷ノ浦港近くにある賽神社に向かった。途中、この島の出身者で、戦前の電力王とも言われた松永安左エ門の生家跡を通るが、時間が無くて立ち寄ることは出来なかった。この島が生んだ偉人の一人で、時間があれば寄って見たかった。今は生家跡に記念館が建っているが、行きたい場所の一つだった。生家跡の前の道路をパスし、20分程で港近くの古い神社、賽神社に到着した。ここは男性シンボルを祭神とする珍しい神社で、境内の入り口には巨大なシンボルが直立していた。この神社にお参りし、港傍の昼食レストランに向かった。

 

  • 2000年前も今も水田は変わらない。

     

    次にやってきたのは、港近くの賽神社。


    巨大な男根が祭神だ。


    参拝するツアー参加者の一人。