ちゃおチャオブログ

日々の連続

壱岐・対馬2島巡り(16)原の辻遺跡。

次にやってきたのは、弥生遺跡の原の辻。

 

周囲を200m程の小高い丘に囲まれた盆地の中にある。

 

この場所は広大な水田の中で5-6m程隆起した丘の上にある。

 

何か思わせぶりな鳥のトーテムが入り口に立っている。

 

 

はらぼけ地蔵、海中の小島神社の次に案内されたのは、古代遺跡を復元整備中の原の辻。ここは魏志倭人伝の中に出て来る一支国の王都跡だ。魏志倭人伝の原本を読んだことはないが、随分以前に松本清張のこれを題材に取った「陸行水行」の中に出て来る最初の倭国の国名で、朝鮮半島を経由してやって来た魏国の使者が、幾つか挙げている国名の一つだった。随分昔に呼んだ本で、内容は殆ど忘れているが、当時の人口、即ち口数は、数千口と出ていたように思った。

 

原の辻遺跡がいつ頃から脚光を浴びるようになったのか、自分は知らないが、それは多分左京鼻や猿岩が名付けられた頃と同じ頃じゃないかと思う。日本の人々の間に古代の遺跡に関心が向いたのはここ数十年のことで、遡っても精々100年位前、大正末から昭和に入ってからの事だろう。魏志倭人伝の研究は江戸時代の国文学者辺りから既に研究されていたが、それは書物の中のことであって、江戸時代中期、志賀島で漢委奴国王の金印が発見された時も、それは黒田家に秘蔵され、公に流布されその結果として学者間の考古学的研究材料になることはなかった。「陸行水行」にしても、それは魏の使者のルート検証、当時の邪馬台国の比定に力点が置かれ、自分の僅かな記憶では「一支国」=「壱岐国」との言及は余り無かった。

 

日本に於いて縄文、弥生の遺跡に脚光が浴びるようになったのは、静岡の登呂遺跡が最初で、その後、各地の遺跡が発掘されるようになった。個人が自分探しの旅、ルーツ探しに熱心なように、国家としても国の成り立ち、ルーツ探求の研究は高まり、それは又多くの国民から支持され、関心を持たれた。多くの考古学本が出版され、半ば考古学ブームにもなり、素人考古学者があちこちに出てきたのは良いとしても、「神の手」とまで呼ばれた発掘天才の人が、旧石器時代北京原人よりも古い日本原人と称する土器が実は捏造だと分かって、多くの人々をがっかりさせた。それは丁度10年程前のノーベル医学賞候補とも言われた小保方晴海の「スタップ細胞は本物です!」と言い切った、功名心に焦った結果の空回りだった。

 

ここ原の辻遺跡は、そうした日本全国で沸き起こった考古学、発掘ブームの中で進められて来た考古事業に違いない。周りを200m程の低い山に囲まれた盆地状の広大な水田の中に、この場所だけが他よりも少し盛り上がった台地の上にあり、当時の住居跡、神殿跡、倉庫跡等が再現されていた。如何にも水はけは良く、見晴らしの良い場所にあった。何かそうした古代の宗教行事を行うには、最適の場所だった。この遺跡に関しては、学者風の風貌をした、人の好さそうな、或いは古代史が如何にも好きそうなボランティアガイドが行っていて、過去何百回となく繰り返していた解説を、又新たに我々ツアー客の関心を引き立てるような話しぶりで、興味を逸らさない。人々からの賞賛や感嘆を喜びとし糧とする、彼の天職に違いない。

 

ボランティアガイドの案内で遺跡内を歩く。

 

当時の住居を再現した竪穴住居だ。

 

竪穴になっている。

 

住居の中の生活模様。