ちゃおチャオブログ

日々の連続

壱岐・対馬2島巡り(41)博多湾上空。

機は北上し、前方は糸島半島辺りか・・。

 

博多湾外か・・。

 

前方は糸島半島だろう。

 

 

関東地方の房総半島とか東京湾周辺は何回となく上空から観察しているので、地形を見て今どの辺りを飛んでいるのか大体は推測できるが、初めて飛ぶ飛行ルートは眼下の海外線を見ていても直ぐにはどこかとは判断できない。対馬を飛び立った双発ターボ機は真っすぐ佐賀の海岸線を目指し、平戸、呼子辺りで機を左旋回し、海外線に沿って北上する。長い海外線に沿って緑のベルトが見えたが、それは多分虹の松原だろう。以前唐津城に登って、天守閣から眺めた松原は、全くエンドレスのようにずっと続いていた。

 

それから更に糸島半島。この半島の根元に前原市があったが、この市名は今年周辺町村と合併し、糸島市と名称変更された。魏志倭人伝の伊都国。この辺り、対馬壱岐、糸島、全てが魏使が通った海上の道で、倭人伝に記載されている。その後の倭寇の時もそうだった。海の向こう、半島から海峡を渡ってやって来る異邦人、平和使節であれ侵略者であれ、皆この道を通ってやって来た。和多都美の道だ。直ぐ下に見える島は能古島かも知れない。オノコロ島ではなくノコノ島だ。博多湾を守るように左側からせり出し、その湾口の反対側には金印の島、志賀島がある。一昨日博多港からジェットフォイルに乗って壱岐島にやって来た時に、右手に見えた島だ。今は海の中道香椎宮とは地続きになっている。この辺りは古代史の宝庫ではあるのだが、忘れらえた場所かも知れない。

 

明治の初め、九州地方の不平士族が各地で反乱を起こし、その最たるものは西郷隆盛を首謀者とする薩摩士族であったが、同様に熊本、佐賀などでも反乱が起こり、ずうっと後年まで前原の乱は、この地方、糸島半島付近と思っていたが、それは間違いで、前原の乱は首謀者前原一誠の名前から取られたもので、この前原市とは全く関係のない場所だった。眼下の海岸線、島影を眺めている内に機は海岸線を離れ、町の上空を飛ぶ。どの辺りが太宰府天満宮が分からないが、そろそろ間近だろう。この町の外れ、太宰府政庁跡の近くにある観世音寺で、国宝の鐘を打ったこともあった。天智天皇が母斉明天皇の供養の為に建てたお寺だ。思い出の鐘である。眼下の地上のどこかにある筈だが、機上からは小さすぎてどこにあるかは分からない。

 

 

博多湾に入った。右下は能古島か・・。

 

博多郊外だろう。

 

町の上空を飛ぶ。そろそろ大宰府か・・

 

長い海岸線は姪の浜か・・