広大な県別霊園は参詣者も少なく、静かだった。

霊園の中には、沖縄風の休憩所もある。

草取り清掃員が炎天下の下、黙々と作業していた。

ああ、静岡のパビリオンが見えてきた。

この富士山のレリーフは何十年経っても変わらない。

沖縄の摩文仁と言えば、今次大戦の最も悲惨な場所としての、象徴的な場所である。国内旅行、国内観光が今ほど活発でなかった昭和30年代初め、早くもこの丘に各県の慰霊碑が建立されることになった。当時はまだ米軍施政下で、特別の許可がないと沖縄には渡航できなかったが、それでもこの地で戦乱に斃れた肉親を思う情は強く、各県が県単位で競うようにして慰霊碑を建て始めた。
慰霊の碑(いしぶみ)に参拝した後、次にこの奥の各県慰霊碑をお参りすることにした。同行の稲さんは以前来ているので、車で休憩しているが、我々3人は、各自の県の慰霊碑に参拝することにした。ネギさんは群馬、吉さんは新潟、当方は静岡と。
静岡のイメージは富士山を象っている。30数年前に数回来ているが、静岡の場所は分からなくても、この富士のレリーフだけは今でも鮮明に覚えている。この地で亡くなった兵隊は、先ず家族を思い、両親を思い、次に故郷を思ったに違いない。黙って富士のレリーフに向かっていると愁然とした気持ちになる。
今日は何曜日か知らないが、ここまでやってくる観光客も少ない。広い霊園の中で、草取り、清掃の作業員が黙々と作業をしている。彼等の身内の誰かも犠牲になっているだろう。沖縄県民の多かれ少なかれ、身内の誰かは戦争の犠牲になっている。今ここで祈っているネギさん、吉さんもこの沖縄ではないとしても、叔父さんや親族が戦争で亡くなっている。戦争の悲しみは、風化されるとしても、尚、人々の記憶の中に行き続けている。各県の趣向を凝らしたパビリオンになっていたとしても、その悲しみは癒えるものではない。
慰霊の碑(いしぶみ)に参拝した後、次にこの奥の各県慰霊碑をお参りすることにした。同行の稲さんは以前来ているので、車で休憩しているが、我々3人は、各自の県の慰霊碑に参拝することにした。ネギさんは群馬、吉さんは新潟、当方は静岡と。
静岡のイメージは富士山を象っている。30数年前に数回来ているが、静岡の場所は分からなくても、この富士のレリーフだけは今でも鮮明に覚えている。この地で亡くなった兵隊は、先ず家族を思い、両親を思い、次に故郷を思ったに違いない。黙って富士のレリーフに向かっていると愁然とした気持ちになる。
今日は何曜日か知らないが、ここまでやってくる観光客も少ない。広い霊園の中で、草取り、清掃の作業員が黙々と作業をしている。彼等の身内の誰かも犠牲になっているだろう。沖縄県民の多かれ少なかれ、身内の誰かは戦争の犠牲になっている。今ここで祈っているネギさん、吉さんもこの沖縄ではないとしても、叔父さんや親族が戦争で亡くなっている。戦争の悲しみは、風化されるとしても、尚、人々の記憶の中に行き続けている。各県の趣向を凝らしたパビリオンになっていたとしても、その悲しみは癒えるものではない。