ちゃおチャオブログ

日々の連続

「沖縄の4日間」(14)南部戦跡「ひめゆりの碑」。

日本がバブル絶頂期の頃、国家予算も潤沢で、各地にあちこち豪華な箱モノを建設した。今もその名残がこの摩文仁の丘に建っている。
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沖縄は特に沖縄特措法などという法律があって(今は沖縄振興法)、過剰な財政支援が行われた。
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個々の墓碑銘に別れを告げて碑を後にする。
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ラッパ水仙と言ったか・・。ここに咲く花も下を俯いている。
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慰霊塔も次回まで・・。
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さて南部戦跡最後の訪問地、ひめゆりにやってきた。
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戦没教師の碑。先生も生徒も市民も皆犠牲となった。
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沖縄は悲しみの島である。キリストが人類の原罪を背負って磔り付けにされたと同じように、この島の人々は日本人のすべての罪を背負って戦争の惨禍に見舞われた。本土の主要都市も爆撃を受け空襲されたが、沖縄における地上戦の惨くさは比較にならない。

沖縄戦終結の6月23日に先立つ数日間の地獄の苦しみ、阿鼻叫喚はその場にいて経験したもので無い限り、絵空事のお伽話しとさして変わらない。しかしそれでも人々は語り継ぎ、更生に残さなければならない。終戦直後、昭和天皇人間宣言を行い、日本全国、各県への行脚、行幸を行ったが、唯一この沖縄には足を踏み入れていなかった。天皇がどうして沖縄だけ来なかったのか、日本人の中で最大の犠牲者を生み、一番過酷な運命に翻弄されたこの県にどうして足をはこばなかったのか、自分には理解できない。

しかし現天皇及び美智子妃は皇太子時代にこの島を訪れ、皇太子妃美智子妃はこのひめゆりの塔の深い穴に向かい嗚咽の声を漏らしていた。当然の事、人間としての素直な反応。人は誰しもこの島に来て、摩文仁の丘に立ち、慰霊の碑に向かい、このひめゆりの穴を覗けば、人々の悲惨を思い、苦しみに同情し、地獄を共感する。心は浄化し、霊を悼み、哀悼を奉げる。

陸軍野戦病院看護学生100数十名は、ひめゆり部隊と名を変えて、砲弾飛び交う戦乱の中を逃げ惑い、この南部戦線に追い詰められ、ただ逃げ惑うだけの毎日、誰が決めたのか皆一人づつ手に手榴弾を持ち、この穴の中「ガマ」で自決した。まだ17,18、二十歳未満の女学生だった。戦争の犠牲になった無垢の心と無辜の民。沖縄戦の悲劇の象徴はここにあり、摩文仁の丘にある。

今日の1日、沖縄島の南半分を周遊し、最後に南部戦跡を回り、このひめゆりに至った。戦争の悲惨を思い、反省し、平和を願う。沖縄へ来て良かった。沖縄のこの島の戦場を巡り、心が浄化され、明日への希望も生まれた。より良き日本にしていこう。二度とこうした不幸を生まない為にも。
 
 
 
 
さてこれからひめゆりの碑に行く。
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 ああ、この奥にひめゆりの碑がある。
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その手前には大きな「ガマ」(鍾乳孔)がある。
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ひめゆりの碑。この前の穴の中で100数十名の看護学生が自決した。
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感極まり祈りを捧げるネギさん、吉さん。
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碑文は新たに造りかえられているが、その悲劇の舞台は100年経っても変わらない。
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昭和天皇も一度はここへ来てもらいたかった。亡くなった看護学生も黄泉の国で慰められたに違いない・・。
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