ちゃおチャオブログ

日々の連続

村上春樹「1Q84」第2巻を読む。

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先週の土日にかけて村上春樹の「1Q84」を読み終えたが、554頁の大部のこの本を読み終わるまで、これが最初の第1巻で、その後に、同じような大部の第2巻、第3巻が続くとは、その時まで知らなかった。知らなかったというよりは、正確に言えば「忘れていた。」
 
この著作が最初に出た今から4年前の2009年5月、当方の備忘録を繰るとこの日は法事で伊豆へ行った日であったが、東京駅で新幹線に乗る前、どこかの本屋の店先で、大量の新刊本が山積みにされていて、そう言えば確か、今日村上の新作品が数年振りに出版されると、テレビ、マスコミ等で大々的にアナウンスされていたが、それがこの本だったのか、と後で合点したものだった。
 
題名の「1Q84」を見ても何のことか分からず、村上に対しては以前からそれ程興味を持ってはおらず、手に取ることもなく、横目で眺めて通り過ぎたが、その後のマスコミの騒ぎ方は尋常ではなく、それが大いなるPR効果をもたらしたのか、著作物の内容が優れていたからマスコミが大騒ぎしたのか、その真偽の程は不明であったが、しばらく後の新聞報道を見ると、この本の売れ行きは記録破りで、ハード表紙の小説で100万部販売の最短記録を作ったし、後に続く第2巻、第3巻の売れ行きも、第1巻と同じようなフィーバー状態だった、と言った記事が何回かに渉って出ていた。
 
だから4年前には、この作品は合計で3部からなっていて、この作品によって村上氏はいよいよ待望のノーベル文学賞を受賞するだろう、との記事の内容、構成は当然分かっていたのだが、その後、村上氏は2回、3回とノーベル賞を逸し、去年は殆ど無名に近い様な中国人作家に横からかすめ取られてしまった。あの時のフィーバーから既に4年が経ち、当方の記憶からもこの本が3部構成で出来ている、という事も忘れ去られていた。今回4年振りにこの本を手に取り、漸く4年前のあの大騒ぎを思い出した次第であった。
 
 
この第2巻も前巻と同じような501頁からなる大部であるが、内容的には第1巻よりも大分劣り、刺激も少なく、衝撃性もそれ程は感じられないものだった。村上はこれだけの内容の作品を第1巻の枠内に収めるべきだった。第2巻以降は余分であった。村上がノーベル賞を逸した理由の一つには、この第2巻以降の余分な継げたしがあったのかも知れない。第1巻の554頁の中にすべての物語をコンパクトに収めるべきだった。当方がノーベル賞選考委員ならそう指摘しただろう。
 
第2巻に於いて、物語の中に「リトルピープル」は姿を表し、「1984年」とパラレルな関係にある「1Q84年」に生きる様を3人の登場人物、天吾、青豆、ふかえりが展開していくが、第1巻に於いて先の頁が予測できないサスペンスもどきの展開に対し、第2巻では大よその見当が付くものであり、その分、サスペンス性も薄れ、ありきたりの、陳腐な内容に脱っしてしまった感もあった。
 
唯一の救いが新興宗教の教祖、本の中ではリーダーと呼ばれる男の死であり、恰も麻原彰晃を模したと思われるそのリーダーが、現実の彼の醜さとは正反対に、崇高で力のある教祖と描かれている点を除けば、勧善懲悪の観点から言っても、当然に報いを受けるべき対象であり、麻原流に言えば、ポア、現世からの退出が行われたことであった。小説の中で、彼の力が青豆より勝り、彼女をねじ伏せなかったことが殆ど唯一の救いと言えた。
 
第2巻目には編集者の小松もふかえりの保護者の老学者も金持ちの老婦人とそのガードマンも全く脇に追いやられ、脇役すらの役割も与えられていないが、その分厚みが減って、平板なものになったきらいもある。代わりにと言っては言いすぎになるが、得体の知れない学術財団の理事が登場してくるが、奇妙で不気味さを思わせるだけのキャラクターで、上記の脇役の穴を埋めるには至らなかった。
 
取り敢えず、第2巻まで読んだのだから、最後の第3巻は何があっても読まざるを得ないだろう。第3巻で再度また大逆転のストーリー転換があるのかも知れないが、第1巻を読んだ時の鮮烈な印象は第2巻に於いて、やや陳腐なものになり、少なくとも、当方の読後感から言えば、第2巻と長引かせたがゆえに折角掴みかけたノーベル文学賞もその掌から滑り落ちたものと思われた。さて、第3巻はどんなものだろうか・・・。
 
 
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