ちゃおチャオブログ

日々の連続

中国・歴史の旅(98)開封府内の政庁。

五重塔へ行くまでに幾つかの建物を通り過ぎて行く。
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ここは役所の跡なのか、偉そうな人が何かを裁可している。
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昔風の衣装をまとった人が着座している。
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こんな恰好をしているが、昔だったら、相当に偉い人だったに違いない。
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これが宋時代の政庁というものか・・
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公明正大。これはいつの時代にあっても良い標語だ。
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五重塔へ行く為には幾つかの建物を通り過ぎないと、たどり着けない。「府」と言うからには、かなり広い敷地になっている。建物の中には、昔風の正装をした役人風の案内人が人々に解説をしている。日本で言うボランテアガイドなのか、はたまた共産中国で言う処の「公務員」なのか、かなり高い入府料を取っているだけのことはある。

奈良平安時代の日本の政庁がどんなものだったか、詳しくは知らないが、中国の政庁を見倣って、日本もミニサイズの中国様式を取り入れた二違いない。ただそんな中でも二つの慣行は取り入れることはしなかった。その一つが宦官の制度で、他の一つが科挙だった。宦官は政庁と言うか、後宮の美女3000人を取り仕切るにはどうしても宦官のような存在を必要としたが、日本の朝廷には、そもそもそんな大人数の後宮は存在しなかったし、従って宦官も必要としなかったに違いない。

今この政庁の中で、ゆったりとした大人服を纏い、身のこなしも優雅に、如何にも大臣風の物腰をしている人々は、当時の高級官僚に違いなく、それはとてつもなく難しい科挙、進士の試験に合格した一握りのエリートで、その試験にさえ合格すれば、殆どどんな不祥事を起こしても、身分は保証されるという、エリート中のエリートだった。

日本の政庁がどうしてこの科挙の制度を採り入れなかったという詳しい事情は知らないが、当時の日本は国の規模も小さく、強大な権限を有する特別公務員を必要としなかったのかも知れないし、試験制度による選抜という慣行もなかったのかも知れない。

昔の中国だったら殆どあり得ないことだったが、観光客=庶民は親しげに、嘗ての高級官吏と話しをし、一緒に記念写真など撮っているが、こうした上下の隔たりが無くなったことも、共産革命で一旦全てをフラットにし、リセットしたからに他ならず、封建制度が打破されたからに他ならなかった。しかしそうは言っても現在中国では新たなエリート層、金持ち層が形成されつつあり、中国3000年の歴史の中ではぐくまれた文化、伝統を打ち毀すのは、並大抵のことではないと思われた。ただ一つ言えることは、清朝が潰えて80年、その間、宦官は全く存在しなかった、ということで、3000年間続いたこの制度もついぞ書物の中の研究対象になったことである。
 
 
 
人々も興味深そうに眺めている。
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議事廳。今でいう議会か、諮問委員会か・・
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ああ、いたいた、科挙をパスした超エリートが。
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ここでは何かの訓示を垂れているようだ。
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ああ、兵隊さんもいる。
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建物の中庭には太湖石が飾られている。太湖石は昔から尊ばれていた。
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