ちゃおチャオブログ

日々の連続

ボロブドールへの3日間(45)運河の木陰で寛ぐ人々。

運河沿いには約500m程の歴史的建造物の街並みが続く。
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昔はこの街のメインストリートだった。先刻の「TOKO MERAH」(赤い建物)も見える。
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今はトロリーバス、TJ(TRANS JAKARTA)のモダンな停留所が出来ている。
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TJの路線網はジャカルタ市内に張り巡らされている。
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運河の反対側は旧バタビア政庁のあった辺り。河岸には昨夜の屋台食堂があった場所だ。椰子の並木が涼しげだ。
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前方に又シックな建物が見える。
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ああ、ホテルだったのか・・。ホテル・リヴィエラか・・。高級そうだ。
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歴史建造物地区は凡そ500m程続く。その前にある、先刻から歩いてきた運河は「ブサール運河」という。歴史的建物「TOKO MERAH」の写真を昨日のブログに載せたが、この「TOKO」の意味は、ジャカルタ在住のTJ Adventureさんの説明によれば「Shop」とか「Store」という意味とのこと。建物壁面に飾られたプレートを見ると、この建物が最初に出来たのは1700年代の初めの頃。日本で言えば元禄時代を少し過ぎた辺りだ。

当時のジャワでは、この運河周辺が物流の中心で、運河を間にしてこちら側が商業地区、反対側がバタビア総督府を初めとする行政の中心地だった。中国人も多く住んでいて、ここを出航した唐船は安南、現在のベトナムで象を積み込み、将軍家へ献上した。長崎との活発な交易が行われていたと思われる。

「ブサール」(Besar)とはジャワ語で「大きな」という意味。今見る限り幅30mも無い程の運河だが、当時とすれば「大運河」だったのだろう。そう言えば同じ頃の日本で、北前船の往来が頻繁だった小樽でも「大運河」が開削されたが、名前がイメージする程の幅広の運河とは思えなかった。小さなハシケ(艀)が行き来する程度だったから、この程度の川幅でも充分だったのだろう。

300年前の賑わいをこの運河から想像するしか無いのだが、今は無残にもどぶ川と化し、小舟がゆっくりと大きな浮遊物をかき集めている様は、「100年清河を待つ」、下水道が整備される以前の隅田川や六郷川の汚れを見ているようで、ヘドロの運河が浄化され、海の魚が回遊するには、更に長い年月がかかるだろう。

当時と変わってないものがあるとすれば、両岸に繁る並木かも知れない。南国の椰子に混じって、火炎樹のような真っ赤に燃える花を咲かせている木もある。300年前も同じように咲き、オランダ人や中国人商人の目を癒してくれていたのだろう。今は彼等にかわって、インドネシア人の何人かが木陰で食事したり、ゲームをしたり、寛いでいる。隣りはどぶ川であっても臭覚は直ぐに鈍麻し、気にならなくなる。子豚のように太った大男が仰向けになって気持ちよさそうに午睡をしている。邯鄲の夢。どんな幸せな夢をむさぼっているのだろう・・




運河はどぶ川のようになっているが、ゴミ集めのボートも出ている。
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ああ、前方に跳ね橋が見えて来た。
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木陰で休んだり、物売りなども出てきている。
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ああ、ゲームをしている男たちがいる。
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お金を掛けているようだが、何のゲームだろう・・
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やや、気持ちよさそうに昼寝している男もいる。
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いやー、これは見事なお腹だ。8か月の妊婦よりも大きい。
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苦悩も悩みも無い。幸せなんだろう・・。
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