ちゃおチャオブログ

日々の連続

ボロブドールへの3日間(44)コタ駅前を通り過ぎ歴史地区へ。

中華街を出た直ぐの場所には、大きなビルが建っていた。運河はこの辺が最終だ。
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建築途上なのか古くてメンテが充分でないのか、如何にも雑なビルだ。
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運河の終着というか、始まりというか、ヘドロのどぶ川になっている。
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過激派の爆弾テロもあり、武装警察の警備も厳しい。
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中華街の出入口。この感じは、横浜でも長崎でも同じだ。
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中華街の外では、高架鉄道の下を利用して雑貨商などの店が出ている。
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ここは商店主も客も大半がインドネシア人だ。
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中華街を通り抜け、コタ駅前近くの道路を運河に沿って港方向に向かって歩く。港へ行く手前に「ハネ橋」がある筈だから、ついでにそれも見て行こう。中華街の外は、今度は地元民、インドネシア人の商店街になる。結局、中華街の中に入って商売出来ない人たちが、云わば、場外市場を形成している感じだ。高架鉄道の下を利用して店舗を構える様などは、丁度上野のアメ横を思い出す。CDラジカセを大音響で鳴らし、自転車を漕ぎながら飴とか飲み物を売っている様は、バンコクやその他東南アジアの光景だ。

運河は途中暗渠となって、道路の下に隠れたり、又臭いどぶ川になって地表に現れたりしているが、コタ駅の北側を総督府前広場に向かって続いている。この運河沿いに歩いて行く限り、道に迷うことはない。と、駅を通り過ぎた辺りに来ると、歴史風紀地区のような一角に出る。戦前の前世期に建築されたがっしりした感じの建物が並んでいる。嘗ての船会社とか貿易商社が入居していたのだろう。規模は大分劣るが神戸の港地区とか横浜の山下通りを彷彿させる。オランダは海洋民族の国。オランダ統治時代には、この辺りも活発な商業活動が行われていたに違いない。

インドネシア語で、「TOKO」とはどんな意味だろう。日本語の「東光」に似ているし、「東京」とも語感が似ている。時々この表示を見、「TOKO 〇〇ホテル」とか「TOKO XX」とか良く見かけ、気にはなっていた。今またここのクラシックなビルのプレートに「TOKO」の文字が見える。インドネシア語で「テレマカシー」、「ナシゴレン」、それに3番目に覚えた言葉がこの「TOKO」だ。意味は分からないのだが。

歩いてく内に運河も段々幅広になってきた。昨夜夕食を食べた屋台もこの運河の対岸にある。営業は夕方からだから、今のこの時間、店には誰もいないが・・。むしろ運河のこちら側の木陰で、午睡をしたり、涼んでいる人の方が多い。水辺の緑陰には違いないが、・・このどぶ川のような異臭と濁りは何とかならないか・・



中国人とは目に見えない一線が引かれているようだ。
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中華街は中国そのものだったが、ここは東南アジア的なゆっくりした時間が流れている。
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歴史的建造物の地区にやってきた。
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嘗てのオランダ総督府時代のがっしりした建物が並んでいる。
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前世紀の由緒あるビルに違いない。
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「TOKO MERAH」、1745年、18世紀の建物だ。「TOKO」??
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シックな感じの入り口だ。
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