天台山「国清寺」は山の傾斜を利用して、境内が立体的になっている。
段々高見に上るにつれ、色々な堂宇、伽藍が現れてくる。
ああ、この大きな香炉も由緒ありそうだ。
釈迦三尊像か・・。
更に上には、更に建物がある。
境内の一番高い場所にやってきた。
ここ国清寺は山の斜面を利用した傾斜状の境内になっていて、幾つかの伽藍は坂を上るごとに現れて来る。古めかしい造りの堂宇に黒光りする大香炉。この時間、参詣者も少なく、森厳とした気持ちになる。坂を上り切った、一番高見の場所に最近作られたらしい一堂がある。
堂宇は3つ4つある碑文の蓋いの屋根になっていて、整った楷書で、綺麗な文字が並んでいる。最初に目に付いたのは天台宗中興の祖、且つ最長の師、智者大師を称える頌詞で、彼の業績を称えている。その横に、何と、最澄大師、伝教大師の碑文があるではないか!それから現在の行満座主の送別の辞。
佛歴2526年と彫られている。・・そうか、西暦に直すと1982年。そうすると、この1月前、少林寺から白馬寺を廻り、開封の相国寺を訪問したが、そこで参詣団が奉納した空海大師像を拝観したが、それも1982年のことだった。丁度昨日、その「相国寺の空海大師像」を「中国歴史の旅」ブルグに載せたばかりだ。
この二つの2大教団、真言宗と天台宗は、丁度同じころ、中国ゆかりのお寺を参詣し、奉納したのか・・。寧波郊外、天童寺には鶴見女子高の石碑しか見なかったが、曹洞宗の同じような碑文か銅像が境内のどこかにあったかも知れない。
日本仏教界の二人の巨人、空海と最澄が期せずして当方ブログ内で、今日同時に会劫した。1200年前の二人の歩みは、1200年後の参詣団により頌賛され、更にその20年後の旅行者の目に留まり、今日こうしてブログ内で、会合した。
希なること。一緒に中国に渡り、帰国後は別々の宗派を開いたが、二人の友情は生涯絶えることなく、最澄は死の間際まで比叡山を下りて東寺の空海を訪ねたという。1ヶ月違いの中国旅行だったが、二人の巨人の巨石を同時に追うことができ、当方もしても幸運、幸福の限りだ。
堂宇は3つ4つある碑文の蓋いの屋根になっていて、整った楷書で、綺麗な文字が並んでいる。最初に目に付いたのは天台宗中興の祖、且つ最長の師、智者大師を称える頌詞で、彼の業績を称えている。その横に、何と、最澄大師、伝教大師の碑文があるではないか!それから現在の行満座主の送別の辞。
佛歴2526年と彫られている。・・そうか、西暦に直すと1982年。そうすると、この1月前、少林寺から白馬寺を廻り、開封の相国寺を訪問したが、そこで参詣団が奉納した空海大師像を拝観したが、それも1982年のことだった。丁度昨日、その「相国寺の空海大師像」を「中国歴史の旅」ブルグに載せたばかりだ。
この二つの2大教団、真言宗と天台宗は、丁度同じころ、中国ゆかりのお寺を参詣し、奉納したのか・・。寧波郊外、天童寺には鶴見女子高の石碑しか見なかったが、曹洞宗の同じような碑文か銅像が境内のどこかにあったかも知れない。
日本仏教界の二人の巨人、空海と最澄が期せずして当方ブログ内で、今日同時に会劫した。1200年前の二人の歩みは、1200年後の参詣団により頌賛され、更にその20年後の旅行者の目に留まり、今日こうしてブログ内で、会合した。
希なること。一緒に中国に渡り、帰国後は別々の宗派を開いたが、二人の友情は生涯絶えることなく、最澄は死の間際まで比叡山を下りて東寺の空海を訪ねたという。1ヶ月違いの中国旅行だったが、二人の巨人の巨石を同時に追うことができ、当方もしても幸運、幸福の限りだ。
ああ、前方に碑文の蓋う堂宇が見える。
天台宗中興の祖、というか、ここ国清寺、創建の智者大師の頌文だ。
ああ、佛歴2526年、と言うと1982年。とすると後で日本人参詣団が建立したものだろう・・。
碑文の前で1枚記念の写真を撮って、境内を下る。
吐き出せ、悪気を吐き出せ、この穴の中に・・。