南京博物館の仏教の部屋。鴨居の所に、沢山の仏像がはめ込まれている。
鴨居にはめ込まれた仏像。この部屋を最後に博物館を出る。
市内を巡る運河を10分程クルーズする。
市内ツァーの参加者。
中国も今は旅行が大ブーム。
運河の途中にはこうしたカラフルなゲートなども立てられている。
運河の途中にはこうした親水公園のような所もある。
中国風の公園だ。
さていよいよ中山廟にやってきた。
ああ、10数年ぶりの中山廟だ。
約30分の南京博物館鑑賞の後は、市内を巡る運河の遊覧船に乗り、その後は中山廟へ行く。中山廟とは孫文の別名、孫中山の名前から採られた廟で、中山廟は中国全土の主だった都市にあるが、大陸以外にも台湾各地にも存在している。そんな中で南京の廟は最大規模で、辛亥革命により清を倒した新政府が、この街に最初の中華民国を樹立した関係によるものだろう。
10数年前、友人の吉さんとこの廟へ来た時は、霧雨の中、丘の上に大きな記念碑(廟)が立ってはいるが、訪れる人もほとんどなく、当方、阪急交通社のツアー客程度で、登り口の手前に数軒土産店が並んでいたが、閑古鳥の様子。暇を持て余していた店員からお土産に雨花石を勧めれ、かなり負けてくれるというので、ワンセットの雨花石を2万円で買ってきたが、今日の中山廟は、当時を彷彿させるものは全く無いと言って良いほど、様変わりしている。
兎も角人が多い。中国中から集まってきた観光客で溢れかえっている。孫文は中国人にとっては「国父」。日本人で言えば天皇陛下のような存在かも知れない。日本人であれば、小中学の修学旅行で一度は訪れる皇居と同じ様なもので、生涯に一度、ここ南京中山廟を参詣するのが、彼等の人生目標の一つになっているのかも知れない。
ツアーは、丘の麓から電動の連結カートで廟の真下まで運ばれ、そこからは1時間の自由行動となる。大勢の人ごみに混ざり、長い石段を上って行く。ああ、この石段は以前と変わらない。その石段の一番高い場所に建っている聖廟も以前のままだ。廟の周辺はがらりと変わって、以前の面影はどこにもないが、この本体の部分は全く変わらない。皇居の周辺が綺麗に整備されても、その中心にある二重橋は明治以来全く変わらない姿を留めているように。
膝の痛みを騙すようにして、この長い石段を上って行く。休み休み、後ろを振り返りつつ上る。「天下為公」。ああ、この文字には記憶がある。孫文の、中華民国の基本的な思想だ。英語で言う「Public」。米国で教育を受けた孫文らしい公共性、公僕性を表している。廟の最上段から下を見る。蟻のように沢山の人々が石段を上ってくる。その遥か先には南京の街がかすかに見えていた。
10数年前、友人の吉さんとこの廟へ来た時は、霧雨の中、丘の上に大きな記念碑(廟)が立ってはいるが、訪れる人もほとんどなく、当方、阪急交通社のツアー客程度で、登り口の手前に数軒土産店が並んでいたが、閑古鳥の様子。暇を持て余していた店員からお土産に雨花石を勧めれ、かなり負けてくれるというので、ワンセットの雨花石を2万円で買ってきたが、今日の中山廟は、当時を彷彿させるものは全く無いと言って良いほど、様変わりしている。
兎も角人が多い。中国中から集まってきた観光客で溢れかえっている。孫文は中国人にとっては「国父」。日本人で言えば天皇陛下のような存在かも知れない。日本人であれば、小中学の修学旅行で一度は訪れる皇居と同じ様なもので、生涯に一度、ここ南京中山廟を参詣するのが、彼等の人生目標の一つになっているのかも知れない。
ツアーは、丘の麓から電動の連結カートで廟の真下まで運ばれ、そこからは1時間の自由行動となる。大勢の人ごみに混ざり、長い石段を上って行く。ああ、この石段は以前と変わらない。その石段の一番高い場所に建っている聖廟も以前のままだ。廟の周辺はがらりと変わって、以前の面影はどこにもないが、この本体の部分は全く変わらない。皇居の周辺が綺麗に整備されても、その中心にある二重橋は明治以来全く変わらない姿を留めているように。
膝の痛みを騙すようにして、この長い石段を上って行く。休み休み、後ろを振り返りつつ上る。「天下為公」。ああ、この文字には記憶がある。孫文の、中華民国の基本的な思想だ。英語で言う「Public」。米国で教育を受けた孫文らしい公共性、公僕性を表している。廟の最上段から下を見る。蟻のように沢山の人々が石段を上ってくる。その遥か先には南京の街がかすかに見えていた。
デジカメの電池が切れて、以後は携帯電話での撮影となった。
天下為公の前で記念撮影。
聖堂の真ん中には巨大な石碑が建っている。
これも以前からこの場所にあった。
聖堂の前から下を見下ろす。遥か先に南京市内が望遠できた。
いやー、それにしても凄い群衆だ。
人で溢れ返っている。
聖堂を取り巻く人々。
中山廟聖堂。